社会保障制度改革を議論しても『超高齢化社会の負担増・給付減の現実』の厳しさへの対応は簡単ではない。

現在40代以下の世代だと『公的年金』にはほとんど頼れないか、最低でも68歳以上の給付開始で現在よりも大幅に減額された年金となる可能性が高い。60代で引退して年金と貯金だけで悠々自適に暮らすという『戦後日本の一時期のライフデザイン』が通用しなくなり、原則として『生涯現役社会・自己責任的な共助自助の社会』に再編されていくことになるのだろうが、現役世代の税金・保険料が上がり続ける中で給付が段階的に削減される状況は、『いずれかの時期の政治決定』で公的年金制度そのものが大幅に抜本改革されるだろう。

公的健康保険にしても財政悪化が続いており、現役世代の負担率、特に殆ど病院に行かないのに払っている若い層の負担率は限界に近づいている。年収300~400万くらいのゾーンでも、国民健康保険であれば月額3万円以上を支払わなければならず、もしもの時の全額自己負担を考えても、10年~20年と健康でいる人にとっては殆ど掛け捨てで、自分が高齢になった時に現行の割安な自己負担率(年金でも支払い可能な医療費の上限額)が維持されている可能性は低いだろう。

現在の若年層は、自分たちが高齢になる時には現状ほどの老後社会保障が維持されていないだろうと半ば諦めている部分もあるが、50~60代以上くらいの世代だと今まで『長く払い続けてきた負担感』と『ここまで払ってきて減額・受給年齢引き上げは許せない』という思いも強くなるので、社会保障制度改革では最大の抵抗勢力(今まで通りの制度を維持してほしいとする勢力)になる。

結局、『受給開始年齢の引き上げ』や『年金支給額の減額・医療費介護費の自己負担率の引き上げ』をする時期は非常に政治的に高度な利害調整の判断であり、どの世代が高齢になる時に実行しても非常に強い抵抗があることは確実だろう。政治家・大学教授・評論家などのように自分がやりたくてやっている職業での生涯現役のイメージは、『社会一般の労働者の意識』と重ね合わせることはできないし、国民(会社員・公務員)の側から年金をできるだけ早く貰わない『生涯現役社会構想』を求めているという事実もない。

年金制度の一元化の構想だとか、厚生・共済年金と国民年金の財政状況の違いといった問題も難しいのだが、近年の非正規雇用や無職者などの増加も含めて、『25年以上の保険料納付の受給資格』を満たせない無年金層の増加が本格化してくるので(現在の60~70代でも無年金・低年金の比率は10%超で少なくはないが今後はもっと増える)、既存の年金制度だけで全ての高齢者の福祉をカバーできないことはほぼ明らかである。

民主党の『最低保証年金』は、年金保険料を支払わずに生活保護をもらうほうが得ではないかという不公平感や年金がないからといって見殺しにすることはできないという社会権の要請から出された案であるが、自公政権では『既に高齢になっていて保険料を納められない無年金・低年金の層』をどのように手当てするのか、その高齢者雇用(死ぬまで働く前提にしても)を本当に生み出せるのかという部分について曖昧な部分が残る。

公的年金制度の盲点は『正規雇用での完全雇用+若い時期の結婚による女性の3号被保険者化』という現実にはありえないマクロ経済学の『労働市場の理想的な均衡状態(失業者も就業の離脱者も存在しない労働市場)』を前提にしていることにある。

同じ会社の正規雇用で何十年間か働いていれば自動的に年金を納めることになり、無年金・低年金にはなりたくてもなれない(そういった働き方をしない人は無視して良いほどに少ない)という『現在の労働状況と見合わない前提』が置かれているわけだが、この前提が『日本の人口(社会保障の負担者)が増え続けるという非合理的な予測』と相まって社会保障の持続性・給付水準に警鐘が鳴らされている。

一定以下の世代は、年金が初めから無いものと思えば良い(不可避な税金と考えてもしも自分が高齢になって年金などがもらえたらラッキーと思えばいい)という考え方も一部にはあるが、『無いもの』に対しても毎月保険料は払わなければならず給付なしの負担は理不尽ではある。そして、(少し上の世代は今まで通りに給付されているという)中途半端な世代になればなるほど、制度改革の葛藤と不満は強まる。

68~70歳くらいの給付開始年齢がぎりぎり制度維持に賛成する限界であり、70歳以上での年金給付開始になると単純な定期預金・積立貯金よりも金額が少なくなるので(それ以前の年齢での死亡率・掛捨て率も高まってくるので)、廃止論のほうに説得力が出る可能性もある。