北アフリカの大国エジプトが、長期独裁を敷いていたホスニー・ムバラク大統領を追放したことで、チュニジアから始まった『アラブの春』の風は更に勢いを増すかに見えたが、シリアのバシャール・アサド政権の強大な軍事力と体制の前に民衆が起こした独裁打倒の春風は押し返された。2011年3月から始まったシリア内戦は『今世紀最大の人道危機』として吹雪のような寒風を吹かせ続け、シリア国民は同じ国民を14万人以上も殺害して、200万人以上ものシリア国民が自分たちの国を捨てて難民と化した。
いったん独裁を崩して民主化に進むかに見えたエジプトやリビアでも、『軍事独裁・部族政治(宗教政治)へのバックラッシュ』が起こり始めており、『民主的な普通選挙の結果・イスラム宗教勢力(個人の生活面まで規制する宗教原則)の台頭』が気に食わないとする民衆が暴力的デモを起こした。エジプトでは民主主義政治を暴力・威圧の実力でひっくり返せる軍部(世俗派)を支持する動きが強まり、軍部と大衆がリンクすることで『選挙で選ばれたモルシ大統領』をムスリム同胞団の傀儡(世俗主義を否定したり経済状況を悪化させる敵)だとして追い出してしまった。
エジプトやリビアにおける民主主義の機能不全は、北アフリカや中東のムスリム国家が『近代化を可能とする自律的・民主的な個人』によって構成されていないことの現れでもある。端的にはシリアもそうであるがこれらの国々では『自律的な個人の観念・判断』などは存在せず、『部族集団の一員・宗教団体の一員・軍部の一員』といった強力かつ変更困難な派閥意識(利害関係)が先にあって、エジプト人やシリア人といった『統合的な国民アイデンティティ』は自明かつ持続的なものには全くなっていない。
統合的な国民アイデンティティが持続的なものとして形成されると、内戦で自国民を殺害するという判断・行為そのものがおよそ不可能となる。日本人は日本人を集団闘争で殺すことができず、アメリカ人がアメリカ人を集団闘争で殺すことができない、仮に日本政府が特定の県を攻撃する命令を出し、合衆国政府が特定の州を攻撃する命令を出せば、その瞬間に統一政府としての正当性を失い政権が瓦解するか、あるいは軍隊自体がその首相・大統領の命令に強制権限がないとして軍務を放棄(政権に離反)する可能性がでる。
少なくとも、国民アイデンティティが統合された民主国家では、幾ら大統領や首相の命令があったとしても、自国民(反体制派の集団)に化学兵器・生物兵器のような機械的殺戮を可能とする大量破壊兵器を使用することができず、そういった命令を忠実に遂行しようとする軍の構成員も(よほど体制寄り・権威主義の狂気的な思想の持ち主でもない限り)殆どいない。そのような兵器を使用すれば如何なる理由があっても最高権力者はその地位を追われるか、刑事罰を科されるような弾劾裁判を受けることにもなる、サリンを同じ国民に無差別的に散布したオウム真理教のテロリストは、現実否認の宗教的アイデンティティによって国民的アイデンティティを捨てていたが故にそれが可能であった。
例えば、日本は戊辰戦争によって、アメリカは南北戦争によって、イギリスは清教徒革命(イギリスはアイルランドとの独立を巡る内紛や各地の旧植民地との今後にまつわるポストコロニアルな問題は残るが)によって、『内戦を生み出しかねない国民アイデンティティの民族・思想・宗教・歴史的確執の分断の根』を概ね断ち切ってしまうことができ、その上に更に自由主義・民主主義・人権を先進国の普遍原則として尊重せよ(暴力で自由民主主義を否定したり一般市民を殺傷・恫喝することなどは野蛮・無知な恥ずべき振る舞いだ)との学校教育とマスメディアの情報が塗り重ねられている。
それによって、日本人・アメリカ人・イギリス人という統合的な国民アイデンティティが生まれ、民主的な意思決定に武力で逆らわずに納得することができる基盤が整備されたのである。だが北アフリカや中東には上記したような『統合的な国民アイデンティティ』が確立されておらず、『部族間・宗派間・階層間(体制と非体制)の争い』があれば、同じ国に属する国民同士であっても、『分かり合えない抹殺すべき敵』として認識して攻撃することができる。
『選挙の多数決・民主的な議論(話し合い)の結果』に納得できなければ、反対する派閥の数を集めて暴力に訴え掛けること(軍と連帯してクーデターを起こし選挙で選ばれた代表者や政治家を追放すること)が悪いことだとも感じられにくい。そもそも自由主義や民主主義(普通選挙・議会政治)、立憲主義、人権尊重(個人の尊厳)は、これらの部族政治・宗教政治の連合体のような国々にとっての守るべき普遍原則でも伝統的な価値観でも何でもない。そのように子供時代から教育されてきてもいないのだから、『自分たちの属する集団・派閥の損失や信仰否認(思想信条の対立)』につながるような嫌いな政権を話し合いだけではなかなか認めないのである。