ひきこもりやニート(自発的無業)というのは、かつて『若者の心理的問題・不適応問題』であったが、近年では1980年代以降にひきこもりになった人たちが社会復帰・就労の再チャレンジをする契機を得られないままにひきこもり続け、40~50代の中高年期のひきこもりになってしまったという『ひきこもりの高齢化』が指摘され始めている。
「中高年ひきこもり」が過半数を超えた 40代が最も深刻、期間10年以上も
ひきこもりが問題化してから30年近い歳月が流れ、日本経済はかつての成長力・財政力とセーフティネット的な安定雇用の性格を失い、ひきこもりやニートといった問題の捉えられ方も『社会復帰や教育訓練を支援されるべき問題(心理的問題をケアされるべき問題)』から『働かない人の人格性や家族が非難される問題(苦しくても働く人たちがあいつらはずるい甘えていると非難する問題)』へと変質してきた。
生活保護問題もそうだが、ひきこもり・ニート・無職などに対する批判の論調が、『一部の特殊な社会不適応の人たちに対する支援・ケア・対応の考え方』ではなく『自分もそうなるかもしれないがそうはなりたくない(頑張っている私とダメなあいつらとは違う存在だ)という同レベルでの貶め合い』に近づき、非難・否定の論調がより過激かつ酷烈なものとなっている。
相対的に弱者同士が人間的価値を競い合って貶め合ってしまうような心理状態が生み出される社会構造や階級意識が固定されつつあるのかもしれないが、『働いていること=生存しても良いこと、自分が無価値ではないことの道義的・責任的な赦し』のような象徴的意味を帯びやすくなっている。
そのために、就職活動で生きるか死ぬかの必死な心理に追い立てられる学生も増えているのだが、現代社会には『職業キャリアの中途における脱落リスク』が至るところに穴を開けており、ひきこもりまでにはならなくても正規雇用から非正規・アルバイトになって、職業的アイデンティティのやりがいや自己肯定感を失ってしまう人も少なくない。
給料や社会保障の面で優れている仕事(大手企業・専門職・官庁等)であっても、ハードワークや人間関係、ストレスなどで心身の調子を崩して精神疾患を発症したり、中には過労死や自殺をしてしまう人もいるのだから、『就職さえ上手くいけば後はハッピー』とはならないのが現代社会のつらさでもある。
逆説的に、学歴・就職・職業の競争で勝ち続ければ勝ち続けるほど、『より負担とストレスの多い立場』に望まずして追い込まれていく人たちもいて、『程よい負担で程よく稼げる仕事』というのはあるようでないものであり、仕事・労働に対してかつてよりもネガティブな評価やイメージを持つ人が増えていることが憂慮される。
ひきこもりやニートで働いていない人たちにも、実際には様々な事情・経緯・心理的問題・関係性・悩みがあると思われるし、家族であっても誰であっても『人から最低限の生活費+αの小さなお金』だけを支給されて、自分の果たすべき役割や能力の発揮できる場所がないままに生きていくことはつらいこと(少なくとも楽しくはないし後ろめたさを感じやすく、生きがい・充実感・自信には乏しい状態)のように思われる。
だが、『働かずに生きていけるのが羨ましい、仕事をしていないのはずるい(だが自分はそんな生き方はできないし、そういった生き方は堕落しており人間的に無価値でもっと責められたり無理矢理でも働かせるべきだ)』という意見を述べる人も多くいて、そういった人たちのイメージの中の中高年のひきこもり・ニートは『何の悩みも葛藤もなく、ずるい考え方をして暢気に生きている気楽な怠け者』といった紋切り型のものである。
実際には、子が死ぬ時までの資産を持っているような裕福な家は殆どないはずで、働いていないこと(働けないこと)の後ろめたさや自信の無さ(自分の不甲斐なさ)を全く感じずにいられるひきこもりの人もそうそういないと思われる。
表面的には、のんびり気ままにやっているように見える人であっても、現状が最後まで安定して続くというほど楽観出来ている人は少なく、仕事・将来に対する真剣な話し合いになると緊張したり不機嫌になったりしてその話題から逃げようとする人が多いことから、『本心では仕事・将来・老後』がどうなるかについて心配があるが動けない自分から目を逸らしているに過ぎないと言えるだろう。
ひきこもりが増加しやすい社会背景の現れの一つが、『働いていない人はずるくて怠け者・できれば自分も仕事なんてしたくないが仕方なくやっている・自分はこんなにきつくて嫌な仕事をさせられているのに、あいつだけ家にひきこもってずるい』といった意見に象徴される現代に瀰漫する『やり甲斐のない労働忌避・誰かにさせられている仕事の他律性(本当は仕事をしたくないのに生活や家族、世間体等のために仕方なくやっているだけ)』である。