パワーハラスメントを生む過剰な競争原理(過労・連帯感の崩壊)と雇用不安(解雇リスク)

『大人の社会(会社)』で、弱い立場にある相手を追い込むいじめ・嫌がらせのパワハラが蔓延している。いじめ・嫌がらせを自己正当化するような大人が後を切らないのに、『子どものいじめ問題』に真剣に対応できるはずがないと思わせられる労働相談統計の結果であるが、2012年のパワハラ相談件数は5万1670件(同12.5%増)にも上るという。

パワーハラスメントとは、相手が逆らえないと推測される『職業上の地位・権限・命令』を悪用して、自分よりも下位の弱い立場にある従業員に対して、『人格否定(能力否定)の暴言・叩いたり蹴ったりの暴力行為・違法なサービス残業(長時間労働)の強要・言うことを聞かないと解雇や不当待遇をするぞとの脅迫』をすることであり、従業員に不当に『精神的・肉体的な苦痛』を与えることである。

職場にいづらくして間接的な解雇を行うためにパワハラが行われることもあるが、その多くは『上位者のストレス・過労状態・不平不満』の八つ当たりのストレス解消であったり、権力関係(立場の違い)を強調するデモンストレーションであったりする。

とはいっても、全ての職業上・職位上の下位者がパワハラの被害者になるわけではなく、『キャリアアップの転職をすることが困難であることが自明な人材(絶対にその仕事を辞められないという危機感が強いが職能上のニーズは大きくない人材)』や『性格的に抵抗力や自己主張が弱そうに見える相手(いくら暴言暴力を浴びせても反抗してこないと見られた相手)』がターゲットになりやすい。

パワハラが起こりやすい企業・環境の第一の条件は、『職場の大多数の社員が嫌々ながら我慢して仕事をしている会社(不本意な長時間労働で疲れきっている人が多い職場)』である。

更に、『身分・立場の序列を意識させることで優越感や劣等感を感じる上司が影響力を持っている職場』では、やたらと怒号・罵倒交じりの指示が飛び交うばかりで、職場における連帯感や協働性が弱くなっており、自発的・積極的に仕事をしている人が少なくなっているので(カネさえあればすぐにでも辞めたいという人材ばかりになるので)、威圧的なパワハラをしないと職場の士気・業務進捗が保てなくなることもある。

パワハラは企業(部門)の実力を超えるような『極端に高いノルマ(生産・営業・市場開拓の目標)』を課せられていて、職場の構成員が『慢性的な過労状態・ストレス環境』を実感し続けている時に起こりやすくなる。過剰な競争原理や雇用形態の細分化によって、同じ職場で働いている人たちを『助け合う仲間・同僚』として見ることができない人が増え、企業の共同体的な相互扶助機能が壊れて、『上位者が下位者に命令して動かす仕組み』だけが前面にでてしまう結果、同じ職場で働いている相手を『ノウハウを共有しない敵(ライバル)』や『指示命令さえ出しておけばいい使用人』のように見なす先輩・上司が出やすくなる。

どんなに理不尽なパワハラや不当な対応をされても、今の雇用にしがみつかないと生活が成り立たなくなるという『弱い立場の労働者』が増加していることもパワハラ増大の要因であり、パワハラをしている上司・先輩さえも『将来の雇用・収入』に対する安心感を欠いていて仕事を失うリスクがあるという意味では、弱い立場の労働者にカテゴライズされる存在になっている。

仕事は厳しくて当たり前で、日常生活(社会常識)から切り離された特別な力関係(身分格差)が働く場だから、新入り・下位者に理不尽なことをしても許されるという認識は日本では相当に根強い。このことが『社会・常識から隔離された学校のいじめ』と並ぶ『社会・常識から隔離された企業のパワハラ』を生む精神的な母胎となっている。

一般社会や知らない相手(初対面の人)に対して、してはいけない無礼・乱暴・理不尽なことは、原則的には学校・会社の弱い立場の相手に対してもしてはいけないと考えるべきだが、日本では社会人はイコール会社人だと揶揄される風潮がありながらも、会社の常識がイコール社会の常識・法律の遵守にはなっておらず労働基準法の規制項目も殆ど遵守されていない(監督する行政もブラック企業を半ば確信犯で野放しにしている)。

仕事(学校・家庭)であれば相手を一人の人間として尊重しなくても良い、ミスをしたり思い通りの働きをしなければ罵倒したり殴ったりしても良いという価値観を転換させることは容易ではないが、その価値観や認識を転換しなければ『パワハラ・いじめ・DV(家庭内暴力)・児童虐待』の問題は解決することが難しい。

同じ集団組織(序列のある関係性)に所属している相手で、自分よりも弱い立場にあって簡単にはその集団組織を辞めることができない相手に対して、パワハラやいじめ、DV、虐待などの問題が起こりやすくなるが、そういった相手を『助け合う同僚の仲間(学校の友人・家庭の家族)』として尊重・協力・承認することがしづらい競争優位・脱落不安の時代状況に陥っているのだろうか。