そもそも、日本において理性的な法治主義や司法に訴える非暴力主義が本当の意味で根付いてきたのは昭和末期から平成期にかけてであり、それ以前の日本人が『どんな時にも暴力を振るってはいけないという価値観』を共有していたわけではない。
『仲間を裏切った者には暴力的な制裁があっても当たり前・帰属集団に迷惑や危害を加えた者は暴力で多少痛めつけられても良い・言葉で言ってもどうしても分からない奴は暴力で無理矢理に従わせるべきだ』というのはヤクザの仁義・道理であるが、こういった価値観・倫理観はヤクザに特有のものだとばかりは言えず、一般の日本人の中にも形を変えて存在することがあるものである。
友達のグループから離脱する時にいじめられたり嫌な思いをさせられる人もいれば、暴走族などの不良集団から抜けようとして集団リンチを受けた人もいて、個人経営の土木建設業の会社を辞めようとして社長含む荒くれの古参社員からリンチを受けるという事件が起こったこともある。事業規模としては大企業といって良いユニクロやワタミや日本マクドナルドでさえも、『辞職する自由』はあるが従業員を酷使したり暴言で恫喝したり過労死させたりする『ブラック企業』としての側面が批判されていたりもするが、政府は経済的利益や雇用のボリュームを優先して現状以上の指導監督をしようとはせずに労基法違反を放任している。
言葉で言っても不健全な生活態度やひきこもりの問題が変わらないからという理由で、戸塚ヨットスクール・長田塾などに代表される『暴力的な強制・脅し』も辞さないスパルタ教育の私塾を肯定する日本人も少なからずいる。『言ってもわからない奴』には暴力を振るって言うことを聞かせても良いとする、ヤクザの仁義とも親和する価値観(法治主義・人権規定の例外も必要だとする考え方)は意外に日本社会に根強くあるように思う。
近世から昭和期までは『社会の必要悪(地方の私的権力としての役割)』と言われたヤクザだが、それは『公権力や法の支配が十分に及ばない生活・労働・娯楽の領域』が広かった時代の名残でもあり、そういったプライベートな争訟領域やアンダーグラウンド領域の調停役としてヤクザが必要悪(威圧的な顔効き)として私的権力を握っていた。だが、国民全体の教育水準や法律意識が向上して『暴力による問題解決=非暴力主義に照らした絶対悪』とする定義が固まり始めた現代においては、ヤクザは『絶対悪としての暴力団(犯罪集団)』として法律で厳しく規制されその存在意義・経済領域を失う流れになる。
ヤクザを暗黙の必要悪として公権力が承認してきたのは広く見積もっても『高度経済成長期の末期』までで、1990年代以降に暴力団対策法や自治体の暴力団排除条例が次々に成立し始め、市民社会も明確に暴力団との共生を拒絶し始めた。市民生活に直接の波及的な暴力被害を及ぼしかねない抗争中の『特定抗争指定暴力団』として警察に指定されるような状況になれば、相当に現住な24時間の監視体制の下に置かれ、事務所の使用(3名以上の組員の集合・談義)そのものが禁止されるため、実質的に暴力団は表立った活動が不可能となり、解散にまで追い込まれることもある。
私的権力としての社会的な存在意義を失って(認められなくなって)、市民生活に危害を及ぼす犯罪行為でしか生計を立てにくくなった暴力団は、長期的には存続が困難になっていき、一般社会の労働や規範に適応できない暴力的な荒くれ者の集団は看板も代紋も掲げない『地下』に潜行していくのかもしれない。恩義を恩義で返し、仇を仇で返すという個人的な心情(物事の正しい道理)に基づく『義理・人情の互酬性』は、かつてはヤクザの任侠道の道徳的な正当化に応用されていたが、企業・世間と同様に利益至上主義(義理の軽視)に傾く現代ヤクザは、そういった道徳的・共感的なシンパシーを集めることもまた難しくなっている。
義理・人情・任侠の起源は『農村社会の互酬性(同調性)の倫理』と『武家社会の主従の契約(忠誠心)の倫理』の両面から補強されていったもので、原理的には『自分の立場・帰属・恩義に応じた人間関係と集団内役割に束縛される意識』が生み出す好意の返報性(良くしてもらった人には良くしなければならないという心情)とでもいうべきものだった。
義理にせよ人情(任侠)にせよ、昭和期半ばまではヤクザの道徳的な専有物というよりは、日本人一般の心情と道徳に非常に強い影響を及ぼしていたものであり、そういった『日本文化の空気』が最低限の義理・人情を通すという前提の上で、ヤクザ(暴力による下層社会の管理・調停・紛争解決)の存在を許容していたこともある。
人間関係・帰属集団に強く束縛され過ぎることを嫌う現代の自由社会の仕組みの下では、義理人情・任侠の筋道は衰退を余儀なくされるが、暴力団は『市民社会に対する脅威・被害』のほうが大きくなり過ぎたこともあって、日本的な恩義を重視する精神文化や暴力を正義のために行使するという物語的な共感性とはかなり異質な犯罪集団になってしまった観がある。
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