古代ギリシア哲学のアルケー(万物の根源)の考察や一神教の唯一神による世界創造の前提は、『世界にある事物』の根本原因を想像力によって仮定しようとするものでした。哲学の始祖と呼ばれるターレスが『アルケーは水である』と語ったことの意義は、モノを構成する素材としての究極的な原因を仮定するということですが、この仮定はアリストテレスの原因論でいう『質量因』になります。
アリストテレスはリュケイオンの講義で、物事の原因には『質量因(物理的に何からできているか)・目的因(何のためにあるか)・作動因(何によって引き起こされたか)・形相因(どのような形態を本質的に持つか)』の4つがあるとしましたが、近代科学に継承された因果論の中心は作動因でした。近代科学の発明以前には、アリストテレスが夢想した究極原因としての『不動の動者』があり、そのイデアから連想された『絶対神』があり、あらゆるモノの起源はそういった絶対的な実在・観念に還元され得ると考えられました。
特定可能な原因があって結果が起こる、原因を理解すれば結果を変更・制御することができるというルネ・デカルトやインマヌエル・カントがもたらした『近代科学の思考方法』は、すべての物事を一つの因果の系列に位置づけました。次第にその原因の始点には、『神』ではなく『無機的な自然法則・悟性的な人間(認識主体)』が置かれるようになっていき、ルネサンス以降の神に拘束されない人間中心主義が花開きます。
カントの『実践理性批判』では、世界において物理法則の因果の連鎖から唯一外れることのできる人間の道徳の実践に特権的地位を与えます。『自然の物理法則(本能・欲望の虜囚)』と『人間の道徳法則(善悪・道徳的義務の分別)』の一翼を担うのが、動物的本能的な必然の法則から、僅かであるとはいえ外れ得る『自由な人間』なのだとしました。カントは因果関係を、『悟性のカテゴリー』に分類しました。
人間は飽くまで自らの知覚・悟性のフィルターを通した『自然現象・物理現象』を認識できるだけで、『自然そのもの・モノ自体』は認識し得ないというのが哲学の主格論争であり、人間の精神から独立して実在する『モノ自体』についてそれが『神・絶対的実在』なのだという見方もありますが、とりあえずは“事象A”の後には必然的に“事象B”が繰り返し起こるという認識と実証が因果関係として確立します。
“事象A”の後には必然的に“事象B”が繰り返し起こるという因果関係について、デイビッド・ヒュームやフリードリヒ・ニーチェを『今まで繰り返されてきた事象の前後関係の結びつきとしての因果関係は心理的に確証される慣習に過ぎない(次の一回の出来事や実験で慣習が否定され得る)』という風に主張したりもしましたが、ニーチェの“永遠回帰の思想”は因果の連鎖を断ち切る“主体の終わりなき循環構造”を示唆するものでした。
『なぜ~が起こるのか』という原因解明への問いは、人間精神にとって離れがたい魅力を持つものであり、『原因を解明できれば、結果を制御できるのではないか』という科学主義・道具主義の考え方はさまざまな分野・問題において人間の思考方法(科学的世界観)の所与の前提となっています。
一方、現代においても因果関係と相関関係の厳密な区別というのは実際には容易なものではなく、統計学の有意性p(有意水準)の前提にも客観的根拠ではなく慣習的根拠があるだけなのですが、『100回試行すれば1回はその因果関係(相関関係)から外れる想定外の結果が出る可能性があるという事象(p=0.01)』でも、一般的にはその相関関係は因果関係に近いものとして認識されるでしょう。
原因があって結果があるという因果論は、『歴史』に当てはめることは難しいのですが、過ぎ去った過去の時間の歴史、今生きている世代の人間が経験していない歴史を理解するためには、どうしても『物語的な因果論を前提とする歴史』の形に落とし込まなければならないところはあります。
『過去の歴史の原因があって、現在の国や民族の結果がある』というカテゴリーは、科学理論や技術文明(道具の進歩)の観点では成り立つ部分もあるのですが、『人間の行為・感情・善悪(倫理判断)』がそういった想像された物語的な因果論の連鎖に絡め取られ過ぎる時には、極端な原理原則主義や敵・味方のフレームワーク(自分自身が何かされた恨みというより過去の事象の知識や祖先のやり取りから植えつけられる恨み)が生まれやすくなります。