富士山の世界文化遺産登録と『概念・権威』による自然(生物)の価値判断

富士山は環境問題(ゴミ問題など)の指摘から『世界自然遺産』への登録が難航していたが、日本の歴史的な信仰・意識・芸術・景観が輻輳した富士山の総合的な評価を訴える『世界文化遺産』に切り替えた事が奏功した。富士山とその標高(3776m)の知名度は国内では圧倒的であり、富士山を直接視認できない地域の人でも知らない人はまずいない。

海外の親日家や外国人の日本文化愛好家も『富士山』の名前と山容の形態は知っているが、それはヒマラヤ山脈のエベレスト(チョモランマ)やK2、ダウラギリ、ガッシャーブルムといった『世界最高峰レベルの山(欧米の登山家がそそり立つ岸壁に征服欲・野心を滾らせた山)』とはかなり情緒的な色合いが異なる文化的な憧憬を伴うものだともいう。

葛飾北斎の『富嶽三十六景』は日本人の富士講の信仰心を背景にしているとも言われるが、外国人が見ても葛飾北斎や歌川広重らが描いた『浮世絵の富士山』に普遍的な美しさを感じるという声は多い。峻烈さと秘境性が際立つ世界の最高峰群と比較しても、そのフォルムに『簡潔明瞭の美』があるとされるが、確かに見た目の視覚的な安定感と普遍的な実在感に抜きん出たものがある。

浮世絵の価値は、外国人が再発見した日本の美と言われることもある。富士山の世界文化遺産登録によって日本人の登山者が急増したり、今まで富士山や登山に何の興味もなかった人が初めて興味を持つのであれば、それは『外国人(ユネスコ)が改めて強調(再認)してくれた日本の美』と呼ぶことができるものかもしれない。

日本人だけにとっての富士山の美にも価値はあるが、多くの外国人も認識して承認する富士山の美は、その価値判断の裾野を更に広げるし、グローバルなお墨付きが与えられることで『日本人にとっての富士山の価値(富士山を見る日本人のまなざし)』にも興味の増進や登りたい意欲といった変化を必然にもたらすことになる。

世界文化遺産になってから急に興味を持ち始めたというと、ミーハーであるとか流行(メディア)に流されやすいとか言われやすいものだが、人間が何かに興味を持ったり何かを新たにやってみようと思い始めるきっかけが『世界文化遺産』であっても別に構わないといえば構わないわけである。

何かを知ったり経験したり気持ちが変化したりするきっかけを得て、人は『今まで無関心だったこと・それまでやってことのないこと』を初めてやってみようとするものである。そういった自分自身のモチベーションや興味関心を高めるきっかけが何もなくなれば人生は味気ないものになるし、『昨日と同じことの繰り返し』以外の新規な行動パターンを見失ってしまいやすい。

『友人知人の話題・誘い』から富士山に興味を持っても良いし、『登山関連の本・映画』から登ってみようと思っても良いし、『芸術・文化・信仰の観点』から富士山について調べてみようという人がいても良いように、『世界文化遺産の登録』もそれらの興味の入口の一つにはなる。世界文化遺産登録に際して、様々な富士山関連の書籍も出版されており、ガイドブックや登山本、旅行雑誌だけではなく、絵画や文化、信仰、地質学(火山学)などそのジャンルは広範多岐に渡るので勉強にもなる。

あるがままの自然や生物は本来、価値があるものでも無いものでもない。自然や野生動物はただそこにある、そこに生きているというだけだが、価値判断をする社会的動物である人間は、『概念』によって自然を解釈してそこに『あるがまま・原状維持・多様性・人間の活動や歴史との相関』などの価値を次々と生み出して感じ取っていく。

逆に言えば、人間同士の言語的(概念的)ないし文化的・宗教的(権威的)な価値の共有がなければ、『自然の美』というのは知覚的な興奮や主観的な感想を超えるものではなく、ヨーロッパアルプスが19世紀以前にほとんどその価値を顧みられなかった(人間の居住不能な悪魔・不毛の山として敬遠されていた)のと同じような現象も起こる。

ある意味では、自己と他者、自己と社会との伝言ゲームによって、『自然世界の価値』は解釈と権威(お墨付き)によって再生産を続けているとも言えるが、『人間にとっての自然の美しさ』だけではなく『生態系にも配慮した自然の美しさ』が追求され始めたのは人間の理性や共感的な想像力の進歩を示しているのかもしれない。

富士山は世界文化遺産登録によって登山者の急増が見込まれるため、環境保護と入山者数の削減を目的とする『入山税』の徴収と金額が検討されている。夏期の富士山は他の山と比較しても登山者の数が桁違いに多く、環境・地盤(登山道)に与える負荷も大きいと推測されるので、入山税の受益者負担はやむを得ないのかもしれないが、入山者を極端に排除しない程度の金額設定のさじ加減は難しそうだ。