北海道警釧路署の桂交番(釧路町)で、交番の脇に止めてあったミニパトカーの上に乗って騒いでいた三人の男の画像が25日夜に簡易投稿サイト『ツイッター』に投稿された。車体の天井に靴底で擦れたような傷があったため、同署は器物損壊事件の疑いで捜査をして、容疑者の若者たちは逮捕されたようだ。
ウェブ社会の発達やSNS(ソーシャルネットワーキング・サービス)の浸透によって、『自分の日常生活・行動履歴・意見と主張』を写真や映像と共にアップロードして誰かに見てもらいたいという人が増えた。
自分の行動・イベントや人間関係にまつわる『ライフログ』は急増しているが、急増しているがために、『無難な普通の投稿内容』では大勢の人の注目や関心を集めることは困難になっている状況がある。
社会事象や人間心理における『卓越した識見・優れた洞察』などでウェブ上で目立つなら良いのかもしれないが、10~20代前半くらいの若者層の多くは『全世代が参加する公共圏の議論』において自らの主張や見識の積み重ねだけでアクセスを集めて承認されるだけの知的・経験的な基盤や文章力がないことが多い。ため、勢い『証拠写真(証拠映像)を伴う悪目立ちの愚行・ルール違反』でここまでやれる俺たち(私たち)は凄いというような間違ったハイリスクな目立ち方を目指してしまうところがある。
『悪目立ちの方向性での自己顕示欲(とにかく目立って仲間からコメントやイイネを貰いたいという承認欲求)』が強い人たちが、犯罪スレスレの行為やマナー違反の行為を投稿して、炎上したり実生活に悪影響(懲戒処分)が及んだりしているが、これは『現代の若者』特有の問題ではなく『愚行とその自己顕示欲が可視化される時代』になったという現れに過ぎないだろう。
1970~1980年代のヤンキー文化全盛期に、もし今のようなSNSがあれば、校舎裏でタバコをふかしている情景だとか、学校の敷地に授業中に原チャリ(無免許運転)で突っ込んできたりとか、卒業式に奇抜な刺繍入りの改造制服で乗り込んできて式を妨害したりとか、街中で違う学校の生徒がガンを飛ばしただの何だの言って因縁つけたりだとかの映像が投稿されたりして、『ウェブの炎上・事後の社会的制裁』に至った事例には事欠かなかっただろう。
1960年代の共産主義革命(現行体制の転覆)を信奉する学生が多かった全共闘世代でも、今のようなSNSがあれば、ゲバ棒を持って学校のガラスや備品を損壊したり、大学の先生に対して自らの体制維持的な教育者(今の腐敗した体制を支える人材を作ろうとする教育者)としてのあり方を自己否定せよと吊るし上げにして教室から叩き出したり、セクト内で『総括』と称して暴言・暴力を浴びせる集団リンチをしたり、政府の犬と侮蔑する警察署や交番に奇襲攻撃を仕掛けて放火したり(機動隊員を過激デモの投石で殺害したり)などの映像が投稿されていた可能性は大きく、その時代ごとの若者の問題行動の傾向性がやはりあるわけである。
そして、ヤンキー文化圏にしても全共闘運動圏にしても、『その時代の若者層の空気感』を示すものではあっても、全体からすればそういった活動・文化に直接的にコミットしているのは“ごく一部の人たち”に過ぎないという認識が必要である。
『ヤンキー・暴走族世代』とはいっても大半の人はヤンキーでも暴走族でもなく普通に学校で勉強して就職していたし、『全共闘世代』といっても当時は大学進学率そのものが低く、カール・マルクスや毛沢東だのの著作・思想・史的唯物論(共産主義社会の必然的到来)にかぶれて体制批判と社会改革の革命運動をしようなどと思っていたのは若者の中のごく一部(全共闘運動とはこのままのキャリアで無難にいけば自分自身が今の不正な体制を維持する指導層側に回ってしまうという高学歴エリート階層の自己批判運動でもあった)だったのである。
facebookやTwitterで問題行動を自ら投稿して炎上している事例は、相次いでいるとは言っても、10~20代の『若年層の人口規模(約1000万人以上)』を考えれば、全体の0.01%にも及ばないレアな上にもレアなケースであり、近年の若者全体の特徴や問題点を反映しているとはとても言えない。
大半の若者は『アルバイトしている会社に迷惑をかけるような行為やその様子の投稿』をしないし、『いじめ・犯罪・迷惑行為の現場を自慢するかのような投稿』もしないわけで、ウェブ上の迷惑行為・犯罪行為の自己顕示的な投稿は『若者論』の対象ではなく、『個人の価値判断・性格や習慣・行動制御(善悪の分別を適切にできるか・これを投稿したら後でどうなるのかの予測ができるか・仲間内で調子に乗った自分を制御できるか)』の問題である。
もちろん、アルバイト中にふざけて冷蔵庫に入ってみたり食材をかじってみたりした若者が、『常にどんな時も調子に乗っているバカな人たち・冷静なコミュニケーションができないような人たち』であるという根拠があるわけでもない。
普段は『笑顔の親切な接客』や『バイト外での思いやりのある行動』、『学校でしなければならない勉強』などがしっかりできていた人たちがたまたま仲間関係の中でハイテンションになって悪ふざけしてしまった可能性も十分あるし、人間は誰もが『自分ひとりだけで静かに考えている時』と『友達・仲間とワイワイ騒いでいる時(ちょっと恰好つけてやろうとする時)』とでは同じ人でも全く異なる性格の見せ方や行動の判断の仕方をしてしまいがちなところを持っている。
北海道の交番前のパトカーに乗って写真を撮影した若者3人でも、その内の一人だけが交番の前を通りかかっていても、『それと同じ調子に乗った行動』はしなかったに違いないし、電車・バスなどで周囲を気にしない大声を出して大騒ぎしているような不良集団でも途中で仲間が降りていくと人並み以上に静かな態度になったりもするわけで、『仲の良い集団』の中に入ると人間は誰もがいつもよりもちょっとハイで饒舌、調子に乗りやすい自分になりがち(一人ではしなかっただろう愚行もやりがち)なのである。
『仲間集団の中にある自分』と『一人でいる時の自分』との感じ方や考え方に極端な落差がある人ほど(今までの人生を振り返ってみて悪友めいた仲間といる時ほどバカをやって失敗してきた経験がある人ほど)、調子に乗って恰好つけたがる自分の気持ちに自覚的になったほうが良いのだが、逆に言えば自分が調子に乗って犯罪や迷惑行為をしようとしている時に(後でお前自身が面倒なことになったり不利益を被るからやめておいたほうがいいよと)止めてくれるような『良い友達・仲間関係(本当に自分のことを考えてくれる友人)』を作っていくことが大切と言えるかもしれない。