歴史や政治を勉強しながらどのような主体になっていきたいのか:真面目で公共心の強い人の美点とリスク

歴史や政治をもっと勉強したほうがいいという一般的な意見はあるが、中国・韓国の『反日教育(日本を仮想敵として警戒し続ける教育)』が典型的であるように、自国の歴史や政治について偏った勉強や自国最優先の教育をすることによって、かえって『人間らしい感情や倫理に基づく判断力(自分以外の他者に対する共感的な想像力)』が低下する副作用が生じることも少なくない。

○日本の歴史認識に基づく未来志向の東アジア外交の展望:パブリックな国民とプライベートな私人

歴史認識や政治判断に凝り過ぎると、『過去の出来事の積み重ねによる因果・それについての知識の解釈』によって自分自身の意識や判断、価値観が束縛されて、『人間らしい感情・倫理に基づく判断力』が『国家主義・国益確保・政治対立』よりもずっと価値がないように感じられたりすることも多い。

人間を差別したり脅したりすることは悪いという自然な人間らしい感情が、『あいつらには差別されて脅されるだけの歴史的な因果や政治的な計略がある(こっちが攻撃的にならなければあっちが攻撃してくる)という理由』によって否定されてしまったり、戦争は絶対にすべきではなく対話で解決策を模索すべきだという自然な平和を求める感情が、『平和ボケのお花畑・国際社会はやるかやられるか』などの抽象的な概念や決めつけによって揶揄されることにもなる。

こういった歴史や政治についての見識・興味がある人たちの認識が、『国家間・民族間の対立感情』を相互作用的に共鳴させることで、『やっぱりあいつらは信用ならない危険な集団だ』という相互不信構造を固着させている可能性も高いのである。

東方神起がカッコいいとかKARAが可愛いとかいって盛り上がり平和・友好の大切さを訴える人たちは、ネット右翼から『平和ボケ・利敵行為』と揶揄されもするが、自ら『戦争・ヘイトスピーチ』をやむなしとしてコミットする可能性はほとんどない。消費文明社会の内部にとどまっている限り(お金・商品の交換体系+恋愛・遊びなどの私生活の充実に意識が集中する限り)は、『戦う政治主体(自国共通の仮想敵・外部要因を見つけ出そうとする主体)としての過激さ』はスポイルされるからである。

そう考えると『能天気・無知な平和主義者』が国家内部及び国際社会(仮想敵とみなしている外国)で多数派を占めれば占めるほど、『政治的主体の過激さとしての排外主義・戦争リスク』は鳴りを潜めることになるし、中国人・韓国人でも日本に観光旅行をして能天気に旅館に泊まり買い物を満喫するような層には極端な反日主義者はやはり少ない。

『政治・歴史・国際社会』に自分なりに興味を持ってあれこれ真面目に調べながら特定のイデオロギーや国際社会の評価に傾いていく人のほうが、『勤勉・真面目であるがこそのリスク』を高めていき、『自然な人間的感情』や『消費経済社会の満足』では抑えの効かない『自己と国家(帰属集団)との一体化の熱狂』にのめり込みやすい。『政治主体としての国民』は真面目で社会貢献意識もある一方で、『経済主体としての個人』よりも融通が効きにくく、『対話では解決できない意地と問題の領域』を広く持っているために譲歩できずにぶつかり合う可能性が高まる。

そうなると、自分の幸福や快楽などに意識が向かいにくくなり、社会全体が仮想敵とのせめぎ合いの中で勝利したり尊厳を勝ち取ったりするといった『他人を深く巻き込む歴史・政治の対立構造(自分自身の私人としての私利私欲は低次元な価値の低いものとなる)』のほうが自分のライフワークのように感じられてしまうことにもなる。

戦時中の右翼思想団体も、ひとりひとりは真面目過ぎるほどに真面目で、『自分自身の私利私欲・生活の幸せ』などを全く顧みない潔癖な人たち(貧困に喘ぐ農民・労働者・郷土の救済の理想に燃える人たち)であったが、逆説的に『自分自身よりも公共のことを優先し過ぎる人(公共領域・民族の誇りなどに無関心になれずいつも緊張した精神状態にあるような人)』のほうが国家間問題や政治判断をこじらせやすい。

それはフランス革命期にギロチンの粛清を繰り返した独裁者ロベスピエールにまで遡っても、『真面目過ぎること(自分の欲求や私生活を顧みずに社会全体をもっと理想的に良くしよう、そのための障害を徹底して取り除こうと考えること)による弊害』がある。

『自分の人生の幸せ・楽しみ』と『社会全体(国家全体)の利益』との境界線を理性的に意識できるような歴史学習をすることが大切であり、『外国と戦争をしてでも、あるいは反対者の誰かを処刑してでも実現すべき理由』が同調圧力を持って勢いを得た時にこそ、『外国の攻撃・悪さ(裏切り者の謀略)』ではなくて『自国の内部矛盾(国民の不満・怒りの原因)』について自省的にならなければ不幸な歴史(自己保存を核とする人間と国家の業)は繰り返すことになる。