“おひとり様”というのが『話し相手・遊び相手・活動に誘える相手』が一人もいない完全な孤独状態の延々とした継続であれば、9割がたの人は耐えられないというか、死なないまでも充実した面白い人生とは思いにくいだろう。
人間の感じる楽しさや面白さの多くは、『自分が面白い・楽しい・美しいといった感情を感じること』や『自分が物事を深く思考したり多面的に解釈したりすること』だけではやや不十分であり、それを誰かに伝えて共有したり反応してもらったりすることで楽しさや面白さの質感が高まるからである。
ラカン派の精神分析では『人間の欲望とは他者の欲望の欲望である』という風にメタレベルの定義がなされたりもする。より噛み砕いて言えば、『自分が好意を持てる他者の自分に対する興味・欲望・反応(そういった他者から自分に向けられる欲望・関心にまつわる想像力を含む)』というものが完全にゼロになってしまえば、人間は『心理的な欲望』を持てなくなって『生理的な欲求(本能)』だけで命をつなぐような受動態の生き方に陥る。
典型的には誰も話し相手がいない独居老人が、ご飯を食べてテレビを見て寝るだけの生活パターンに嵌るようなものだが、同じおひとり様であっても『地域社会・地域行事とのつながり』や『友人知人とのコミュニティ(誰かと知り合ったり何らかの活動に自分を合わせたりしようとする努力)』があればまた違った形の『心理的な欲望』が芽生えるだろう。
『一人で自由にやれるのが好き・他人にあれこれ干渉されるのが苦痛』という生き方や価値観には僕も共感できる部分はあるが、それは必ずしも『ずっと一人きりが良い・誰ともずっと関わりたくないという意味』ではなく『ずっと誰かにかかわられるのは嫌という意味=お互いが同意できる時には一緒の時間を過ごしたり話しりしたい』という他者への欲望のあり方を示唆しているはずである。
“結婚生活・家族”があっても『分かり合えない相手・一緒にいるのが苦痛になる相手(顔を合わせれば喧嘩になるような相手)・自分もしくは相手が邪魔に感じる相手』であれば、それもまた“おひとり様”以上に孤独で不安な人生の苦渋を味わうことになるかもしれない。
一人でいるよりも常に二人以上の家族がいるほうが良いという価値観が絶対的なものであれば、『中年期以前の離婚・熟年離婚』も有り得ないということになるが、現実には離婚する可能性はある。『価値観・生き方が合わない家族との間の衝突』が繰り返されることもあり、『一緒にいる相手から受けている心身への影響』が好ましいものか悪いものなのかということが一番重要なことである。
お互いに支えあっている安心感や好きな相手と一緒にいられるという幸福感を得られ続けるのが『理想の結婚・家庭』であり、そういった結婚生活や家庭構築ができた人は『結婚の素晴らしさ』を経験的に実感するだろう。一方、DVやモラルハラスメント(冷遇・否定・悪口・無視)など、離婚しなければ自分自身の心身を壊すところまで追い詰められるような人もいるし、職業キャリア・ローン債務返済の人生設計に失敗して結果として離婚せざるを得ない事例も多くある。
一緒にいて希望や元気、やる気、笑顔が湧いてくるような相手であれば一緒にいるべきだが、一緒にいて絶望や抑うつ、無力感、悲しみ(怒り)が湧いてくるばかりの相手であれば孤独・寂しさを云々する以前の問題として、本格的に体調や精神状態を崩す前に離れたほうが良いということになる。
『他人と一緒に結婚や生活をすること(生計・住居を一にして老後の最期までの相互扶助を制度の上でも約束すること)』と『他人と関わりを持つこと(生計・住居を別にして会話や遊び、活動などを共にすること)』は厳密には一緒ではないので、結婚しないおひとり様でも後者の『他人や地域と関わりを持つための努力・誰か話したり協力できるような相手を作って相互扶助を機能させる試み』は続けていく必要があるのではないかと思う。
結婚すれば将来不安や孤独・孤立のリスクがなくなるわけではないが、『婚姻・家族』のような法的制約がない場合には、どんなに現時点で仲が良くて信頼できる友人知人がいても『関係の流動性・可変性』が高いように感じられるという違いがあるのだろう。
自然な感情や都合、欲求だけに任せていると、人間関係は変化しやすい傾向があるので、『婚姻・家族』のような法的裏付けのある関係性が要請されているとも言えるし、『お互いに相手のために時間と身銭を切れる仲間関係(相手のための時間コストや不利益を進んで甘受し合えるような関係)』というのは夫婦・親子・親族以外では実際にはなかなか作りにくいという実情もある。
極論すれば、生涯にわたってお互いが困っていたり必要としている時には、『必ず連絡がついて時間を置かず駆けつけてくれて、相手のために骨を折れる仲間』が一人でも二人でもいるのであれば、結婚・家族に頼らないセーフティネットになる。だが、実際は介護などにしても『血縁のある家族・親族だから義務として面倒を見ているだけ』という人も多いように、『お互いの人格的魅力・それまでの関係性の履歴(恩義と返報)』だけで最期まで相互扶助の約束を果たしてくれるような仲間を見つけることは難しい。
自分で長期間の相互扶助が可能な仲間(同性でも異性でも)を見つけられる人なら、『おひとり様の不安』はないということになるし、ある意味で法的な責任や血縁上のしがらみがないにも関わらず、自ら率先して『あなたのためなら』ということでどこまでも付いてくる人(自分のほうも助けてあげたいと思う人)がいれば、家族以上の安心感をもたらす可能性もある。
一方、そういった『本当の意味で頼りになる他者』というのができたとしても、それが10年、20年以上という長期間にわたって法律的・制度的な縛りがなくても維持されるかというと、(昔いた親友の多くといつの間にか疎遠になることなどを考えても)現実にはかなり困難かもしれない。
ただお互いに自分の家族・子供を持っていないという前提があれば、『自分の時間・収入・労力の多くを責任として注ぎ込まなければならない対象』がいないので、そういった結婚・家族に依拠しないニュートラルな人間関係を支えにできるようなケースも今後生まれてくるかもしれない。友人関係や親密な付き合いの疎遠化などの要因として自分の家族・子供を第一にするので、他の関係に構う余力がなくなることも関係しており、おひとり様なら誰に時間や労力をつぎ込むかは自分で選べるだろうし、ただ話したい時に話せるような関係がずっとあるだけでも精神状態は違うだろう。
それでも『できるだけ早い段階からお互いに対する好意・貢献・恩義の積み重ね』をしていなければならず、それは結局、ある程度は面倒な手間暇や時間・行動の注ぎ込みが必要になるものだ。『相手に良くしてもらいたいという欲求』は『自分が相手に良くしてあげているという事実』との釣り合いの中でしか満たされにくいからである。
更に言えば、相手に良くしてあげても、家族・親子としての戸籍上の関係があっても、『相手の好意による孤独・不安の緩和』というのは絶対的なものなどではなく、誰かからの好意や関わりがあればありがたいと感謝すべきものだ(自分がしたことへの見返りを求めればその意図を見透かされて逆に家族・友人が離れることもある)ということもある。
老後の将来不安や自分の寂しさ・してもらいたいことをあれこれ想像しながら悩むのも詮無きことだと思うし、『超長期的な関係性の結末』などは予定調和的に上手く進むものでもないので、『自分にとって維持していきたい相手との関係性』を大切にしたり、『新たな関係性やコミュニケーションの拡張あるいは深化の努力』をしたりするしかないのかも。
偏屈・意地悪・無愛想にならず、意地を張ったり自暴自棄に陥らないようにして(人に嫌われたり疎まれたりしないようにして)、オープンな気持ちで人と接したり色々な活動に参加・協力したりするだけでも、随分と孤独感や疎外感、将来不安というものは変わってくるようにも思うが。