ニュース報道番組において特定の芸能人(ご意見番的な比較的高齢の司会者)の名前を冠に据え、『メインパーソナリティの価値観・審判・生き方』をもってニュースや政治・経済の問題を裁断していくという番組編成のあり方に疑問を感じる。
例えばこの『みのもんたの朝ズバッ!』だが、メインパーソナリティであるみのもんたの『独断的な素人談義・大衆迎合的な道徳の押し付け』を受け付けない視聴者にとっては『ニュース番組としての価値』は限りなく低くなってしまう。
他のニュース番組やワイドショーも似たりよったりかもしれないが、みのもんた氏や小倉智昭氏などは番組の司会者でありながらも、議事進行以上に『個人的な見解の一般化』に熱心な向きがあり、あたかも『正解のあるようなニュースの伝え方』をする。
しかし、その正解らしきニュースの解釈というのが『世代論・価値観・生き方の主観的バイアス』を伴っていたり感情的に興奮していたりする(表情・口調も演技がかっていたりする)ために、どうにも中立性・公平性・客観性に欠ける報道番組の雰囲気が醸成されやすい。
メインパーソナリティとその他のアナウンサーやコメンテイターとの『力関係の強弱(強い反論をしづらい空気)』や『馴れ合い(お決まりの落しどころ)』を自然に受け容れられる人でないと、この種の報道番組をエンターテイメントとして楽しめない造りになってしまっている。視聴率を稼ぐという意味では既にテレビの報道番組は若者批判的(中高年層への迎合)というバイアスを受けやすくなっており、どこかの番組では『街中の高齢者の身勝手な一喝・現代の風潮や若者への不満』を公論・正論であるかのように流していたりもする。
今日一日のニュースを知りたいという中立的なニーズに応えてくれないという点を見れば、『みのもんたの朝ズバッ!』『とくダネ』などはニュースショーのエンタメ番組なのだが、みのもんた氏のケースでは『馴れ合い・力関係の裏舞台』が視聴者の視界にまで漏れ出てくる不快さもあり、その行き過ぎが『客観的なセクハラ問題(主観的にはギリギリの馴れ合いとして処理されてきた接触行為)』の映像になってしまったという観がある。
日本人は権力・権威・財力などを身につけた有名人を、『ご意見番(水戸黄門的な裁断者の位置づけ)のメインパーソナリティ』として持ち上げることを好む傾向はあるが、周囲の出演者をそのメインパーソナリティに付和雷同させることによって、『仮想的あるいは擬制的な合議制の決着(みんながこう考えているはずという建前の強調)』を演出することがニュースショーの役割(世論誘導の影響力)でもあった。
金銭には困らないように感じられるみのもんたの次男の御法川雄斗(31)容疑者が、なぜ泥酔者を対象にした姑息な窃盗未遂事件を起こしたのかは謎だが、『番組の私物化・内部の権力関係(権力者とそれに追随する取り巻き的な出演者)・おじさん世代のセクハラ意識の希薄さ』などをそれとなく公共の電波に乗せて、それをニュース番組として解釈させようという従来のテレビ番組の報道に対する姿勢を考え直すべき時期に差し掛かっているのかもしれない。
実際の力関係の影響を無視できるとして、相手が笑って許してくれるのであればちょっとくらい尻や肩を手で突いてもいいじゃないかとか、舞台裏では恋人のようないちゃつきもしているのだからセクハラではないだろうとかいう言い分は、『公共の電波に映らない私的空間や個人的関係』であれば(犯罪・強要でない限り)お互いが好きなようにやればいいが、『ニュース番組・報道番組としての体裁や前提』を台無しにするような悪ふざけをしてそれが映像に映り込むというのは、みの氏が糞味噌に非難していた『悪ふざけ写真を投稿したアルバイト』と同等あるいはそれ以上の非常識な振る舞いをしているという認識がなければならない。
冷蔵庫に入ったり食材を齧ったりしたアルバイトは時給1000円以下であるが、みのもんた氏の場合は時給換算でも数十万~数百万円以上の破格のギャランティを受け取っていると思われるだけに(平均的な労働者の年収相当分を一ヶ月もかからずに稼ぐことからも)、女子アナの身体を気分で触ったり突いたりして、にやけて揉み手でごまかそうとする態度は『巨額の報酬・社会的影響力と照らし合わせた職業倫理』を考えれば、非常識で反社会的(反世間的)な仕事への取り組み方とみなされても仕方がない部分がある。
声が大きくて押し出しの強い人物、芸能・報道キャリアが長いようなうるさ型の有名人をメインパーソナリティに据えておけば、『渋面での独断的な決めつけ・世論代表のような制裁型の言論・現代の風潮の道徳的批判』をするだけでニュース番組としての面白さ・刺激感が高まり視聴率も高まるはずという考え方が、特定のメインパーソナリティが『自分がいないと番組がなりたたない・自分の解釈によってニュースの価値が生まれる』というような過剰な自負心・傲慢さを生んでいるようにも思う。