スマートフォンを使い始めてから“紙の書籍+電子ブック”で読書量は増えたが、スマホで使っている“honto”や“Kindle”の電子ブックは、クレジットカードを登録しているとその場で即座にダウンロードして読み始められるため、実際の書店で本を買うよりも多くの冊数をついつい買ってしまいやすい誘惑がある。
一日に自由に使える時間は有限なのだから、スマホを『電子ブックの読書以外の用途』にも使えば読書時間が減りやすいなどというのは、自然法則のように明らかに予測できる結果だとしか思えないのだが、『読書』というのは実学・知識習得の勉強のためでもなければ、良くも悪くも物語や文章、世界観を楽しむという趣味の一環に過ぎない。
読書家で『読書する習慣が社会的・知的に良い習慣とされているから読むのだ』という人は恐らくいないのであって、『読みたい本・増やしたい知識(雑学)・味わいたい物語・知りたい対象がそこにあるから読まずにはいられない』というだけである。
書痴めいた絶えず読みたいというビブリオマニアはそれが行き過ぎれば、社会不適応や労働忌避になりやすいこともあって、明治時代から昭和中期くらいまでは労働者の家庭では『読書の趣味』を身体を使った労働や実社会の仕組むを厭うようになるので望ましくないとする価値観さえあったほどである。
1960年代に、大学生の全共闘世代を冷ややかに見て共闘しなかった労働者階級のまなざしにしても、『経済成長の恩恵』と『共産主義を本で学ぶ読書人(言葉・思想の世界)に対する軽視』が入り混じったもので、元々、日本の大衆文化や労働道徳は『本の世界』を学術研究・実学の勉強以外はカウンターカルチャーと見なす向きが強かった。
古い世代には、趣味の本を読んでも一銭にもならんというような価値観も根強く、ロシアの『イワンの馬鹿』ではないが小賢しい知識・ロジックなどなくても、ただ黙々と正直に誠実に労働する生き方が尊い(言葉・観念・物語の世界に溺れるのは大衆にとっては生産・稼ぎにならず有害だ)とする感受性は結構な影響力を持っている。かつて、文筆業はヤクザな稼業とも言われたが、このことは日本の政治・経済で『演説(弁論術)・教養(リベラルアーツ)・内的な人格や信念』があまり影響力をもたらしてこなかった歴史とも相関しているかもしれない。
アカデミズムや創作稼業、知識労働の隠れ蓑に隠れていることで、世間や家族のバッシングから免れている『読書依存症者(文字・知識・文献の世界から片時も離れられないような人)』というのも実は多いと思われるのだが、日本でも子供時代に限定すれば『ランダマイズな読書体験』がすべて肯定的に捉えられる文化が根付いているとは言える。
小説だとかエッセイだとかいうのは、創作・人格形成・文章表現の勉強になる要素が皆無だとは言えないし、豊かな読書体験を自らの血肉とした人はやはりそれなりの人間性や世界観の広がりを身につけるものではあるのだが、読書家としての基本姿勢は、その媒体が紙の本だろうがデジタルな電子ブックであろうが『自分が読みたいと思うジャンルや作家(研究者)・知りたいと思ったテキストや問題設定』に向き合わざるを得ない(常に何らかのテキストをインプットしておきたい)という言語と観念が優位な気質にあるのだろう。