“減反”という米の計画生産システムの終焉は何をもたらすか?:TPPの荒波と“米(瑞穂)”に対する日本人の宗教観

米(コメ)は大量生産が可能な農作物であり、自由競争経済ではかなり安い値付けがされるため、日本のコメは『減反による生産量+市場価格の調整+輸入の禁止(外国米への778%もの高率の関税)』によって守られてきた。しかし政府は農業の成長戦略の一環として、今までの減反政策の廃止も含んだ抜本的な見直しに着手する構えだという。

外国産の米には1kg当たり341円もの異常な関税がかかるのだが、これは実質的に『日本は外国企業がどんなに安価で良質な米を持ってきても輸入はしません』という国際貿易の禁輸シグナルとして機能している。

日本人はこの関税障壁によって国産米以外の米の選択肢がないわけだが、日本の米は『減反・供給元による価格調整』があるので市場原理とは異なる形で定価が決められており、外国産米の約4倍以上の価格で消費者は米を買うしかない(米は世界的には非常に安価な主食だが国内では比較的値段が高い)。

日本の米の市場規模は約1.8兆円規模、この小規模な個人経営の農家群が担っている計画生産体制を支えるために、『農家戸別所得補償の約5000億円+消費者の市場価格以上の負担約数千億円』が投入されているという試算がある。

日本で作られた米は『品質の安全性・食味の美味しさ』が世界基準と比べればずば抜けていて、大多数の日本人は国産の米しか食べないという農家の主張もあるが、それでも農家は『自由競争になれば日本の米農家は生き残れない可能性が高いこと(特に零細小規模農家はほぼ全滅すること)』を常識的な価格競争の面から理解していると思われる。

米は『麦・牛肉豚肉・乳製品・砂糖資源』と並んで、TPPでも自由化されることが許されない『聖域5品目』の筆頭に上げられているが、米及び水田(農村風景)は日本人の歴史・精神にとって余りに深く根を張り過ぎており、日本国の異称が『瑞穂国』であったようにある種特殊な宗教性を帯びていて『米を作り食べる人=近代までの日本人の定義性』に関わる問題もある。日本人の祖先の大部分は、何らかの形で農作物の生産に関わる百姓であった。

司馬遼太郎が日本各地を巡った紀行シリーズ『街道をゆく』の北海道・東北篇において、『日本人とは誰であるかの問いに対する答えは長らく、米を生産して主食として食べる民族が日本人であるというものだったのだろう。米は貨幣と同等の交換機能を持ち、土地への欲望は米の生産量への欲望でもあった。大名は自らの勢力の強大さをカネではなく石高(米の生産量・養える人の数)で誇示した。米をつくらず食べない民族(=年貢を治める能力に欠ける民族)は野蛮・未開の民族として蔑視された。蝦夷やアイヌの人に対する古代~近世に至る日本人の差別意識は米を作らず食べない人たちであったこととも関わっているが、これは半ば瑞穂国の宗教感情であり理屈を超えていたので、米作に不適な北方に住む人たちは日本人の一部であると認めてもらうために必死に寒冷な気候に耐える米作りに励むことになった』というような内容を述べていた記憶もある。

農村部で先祖代々、水田を管理してきたような一定以上の年齢の人にとっては『日本で米作りが廃止されるということ』は『日本が日本ではなくなるということ(大嘗祭など天皇の五穀豊穣祭祀の起源そのものを失効させること)』くらいのインパクトがあり、『減反制度の廃止+米の貿易自由化』はおそらく日本の米農家の大半を壊滅させるだろう。

しかし、こういった米の保護主義経済を延命させていけば日本の農業の未来は明るいのかといったらそうではない、日本の農家の平均年齢は65歳に迫ってきており『高齢化+後継者の不在+耕作放棄地の増大』によって仮にTPPのような貿易自由化の荒波がなくても、自然な時間の経過と共に農業の担い手と生産力は減り続けていく。コスト面・価格面だけではなく、日本の農業は人材面と戦略面においても、危機的な状況に直面しており、『補助金産業としての緩やかな衰退』以外の選択肢が乏しい感じが強い。

1兆円以上の公金や消費者負担を投入してもなお、日本の米農業は担い手の減少と市場の縮小(食の欧米化によるコメ離れ)から離脱する方法が浮かんでこないし、『美味しい日本米の海外市場』を狙えるチャンスに特化すれば、今ある土地へのこだわりが強い自作農をいったん潰して、企業が従業員を雇って農業をするような形態にシフトしなければならず、今までの農業とは似て非なるものになるだろう。

農地を集約して大規模化するとか、株式会社を参入させて経営効率化を進めるとかいった競争戦略が練られているが、日本の米を中心とした農業が長期的に生き残っていこうとすれば『農業の保護産業化という延命策』でも不十分なのは明らかであり、結局のところ、現在の自営業的な農業の働き方が消滅して『会社員としての農業従事者』のような雇用形態に席を譲るしかないのだろう。『家族経営の農家の消滅』と『アグリビジネスの企業・資本の台頭』という形態でしか、日本の農業が世代交代しながら後継者を見つけて生き延びる道はなかなか見えてこない。

これはあたかも、地方の個人事業主の商店が軒並み潰れていって、イオンのような大規模なショッピングモールに取って代わられたような『市場原理の必然的な結果』に行き着くということかもしれないが、利益追求やコストカット、労働管理、新技術導入が甘くなりがちな『自営業・個人事業としての労働形態(良くも悪くも自分のやり方とペースで働く)』があらゆる分野において劣勢に追いやられやすくなっているのだろうか。

第一次産業は企業資本が深く浸透してこないという意味での『自営業の最後の聖域』でもあったが、農林水産業に従事する人の多くは『会社員・管理労働者としての適性』が低い代わりに『自給自足+αの利益を目指す自立自尊精神』でやってきたわけだが、その収益性・効率性の低さと後継者不足・自由化の圧力を『世代を超えて交わすこと』ができなかったとも言える。数十年先に日本の農業・漁業はなくなっていないかもしれないが、今よりかはサラリーマンライクな管理された労働様式に取って代わられている可能性も高そうだ。

国民が毎年約1~2兆円の負担を負ってでも、日本の米作りの伝統、家族経営による米作りを守るというのであれば延命はできるが、平均年齢が65歳を超えてくることの将来の切迫感はやはり強い、補助金の公金や消費者負担(価格調整)の積み増しだけでは『日本の米の未来(未来の日本で誰が米を作り続けているのか)』は見えてこない。