冬山登山もBC(バックカントリー)のスキーも自己責任が前提だが、

遭難したり死亡したりすれば何らかの非難は免れない。またどれだけ身体を鍛えて装備を整えていようがどれだけ注意深くしていようが、『気象遭難・雪崩事故・落石や落雷・体調急変』などの確率的リスクをゼロにすることまではできない。

アウトドアに限らず、人間は確率的に病気になったり事故に遭ったり死んだりするものだが、アウトドアの事故は特にメディアが大きく取り上げやすく、遭難事故には人間関係や物語性も絡むので詳細な報道がされやすい。

富山雪崩:地鳴りのようなごう音 「残念でならない」

『生活のためにしなくてもいいことを敢えてして救助の手間・コストがかかったり死んで迷惑をかけた(間接的な迷惑行為に当たったり税金の負担になる)』というロジックで非難する人は当然いるが、それはその人の『リスク回避・公費負担の最小化』を善(正義)とする価値観であって否定されるべきものでもない。

自分の好きな趣味や活動を全否定(バカに)されると、それに対して『そうではないとする材料・根拠・経験・事例・主張者側の問題点(他の迷惑やコスト負担)』などを言いたくなるものだが(そのための労力を惜しまずに膨大な論点や事例を集める人もいたりするが)、各種の趣味の分野に限らず、生き方・性格にしろ価値観・視点にしろすべての人に認められる必要はないし、認められることはおよそ不可能である。

相対的な危険度の高い雪山でのスキーに限らず、インターネット(スマホ・タブレットなど端末含め)やテレビゲーム、漫画・アニメ、スポーツカー(燃費の悪いパワフルな車)などの趣味の分野の世界でさえも『嫌いな人は嫌い・否定する人は否定する』なのであり、『有害な影響(もしかしたらの大きなリスク)があると考えている人』は少なからずいるものだからである。

これが体感的に理解できない限りは、社交・世間体において行動選択・判断において人間関係において、『他人から批判されるかもしれない・失敗した時に責められるかもしれない・自分の言い分をみんなに理解してもらわなければならない』という不安や迷いに苦しめられ続けやすい。

特にインターネットが普及してからは、『他人の本音の声』が目につきやすくなったこともあり、『自分の世界観・生き方・価値観・趣味嗜好』を批判的あるいは攻撃的に見ている人も意外に多いのだと気づく機会が増えた人も多いかもしれないが、昔は『気の合う友人知人などの集まり・実生活でのつながりがあって合わせてくれる人』の外にある人たちの声を聞く手段がなかっただけという話でもあるだろう。

全方位的に守りを固められる『正論・客観(自分の選択・活動を棚上げして他者を見る)』としてのゼロリスク志向やコンプライアンスは今後も強まっていくし、『広義の管理社会・牽制文化』の窮屈さも強まる可能性はあるが、『自分にとってのリスク対効果・許容可能な対他人への迷惑レベル』を見極めていかなければ、今後の社会・人間関係においては不完全燃焼で周囲の大勢に同調していくしかなくなってしまう。

夏目漱石の『草枕』にいう『とかくに人の世は住みにくい』の再来のようなものともいえるが、『認めてくれる人のほうを向く生き方』を中心にし、『頑として認めない人』にはそれぞれの体力気力・時間が許す範囲で向き合わなければ、膨大な人々の意見・価値観が見える化した現代ではとてもではないが『個人の時間リソース』の範囲での説得や理解の促しは無理なのである(その無理さ加減は、自分に反対している相手にとってもまた同様であるように)。