映画『かぐや姫の物語』の感想

総合評価 90点/100点

誰もが知る竹取物語の冒頭は、“今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山に交じりて竹を取りつつ、万のことに使ひけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむ言ひける”より始まる。アニメ映画の『かぐや姫の物語』でも、竹取の翁(おじいさん)が竹林で光り輝く竹を見つけて、その手前に伸びてきた竹の子の中から“小さな美しい姫”を拾い上げる場面から始まる。ストーリーは『かぐや姫と捨丸(すてまる)の輪廻転生を思わせる恋愛・かぐや姫の都嫌いと自然回帰願望』を除いては、ほぼ原作を忠実になぞっている。

着物をまとった小さな姫はするりと媼(おばあさん)の手をすり落ちると、瞬く間に赤ちゃんへとその姿を変え、姫を『天からの授かり物』と信じる翁と媼の手によって目に入れても痛くないほどに大切に育てられていく。自然の野山を自由に駆け回って、まるで雨後の竹の子のように急速に成長していく女の子は、山に生きる子供達から“たけのこ”と呼ばれて可愛がられ、あっという間に美しい少女へとその姿を変えていった。

アニメーションは画用紙に書き殴ったラフなスケッチ画のような線質を意図的に出しているが、『人物の表情の複雑さ・墨水画風に色を加えたような色彩・ダイナミックかつ独自性のある動き』に新しさは感じる。

かぐや姫にしても絶世の美女であることを分かりやすい『アニメキャラ(美人だったり可愛い子だったりが一目で分かるキャラ)』の形で創作しておらず、キャラクターとしての存在感はもののけ姫やナウシカ、千と千尋のヒロインなどと比べるとやや落ちるだろうし、『古典世界の住人』としての輪郭の曖昧さ、実在感の弱さをわざと残しているのではないかと思われる。

翁は姫の神通力のおかげなのか、竹林に行く度に砂金の黄金がぎっしりと詰まった竹を見つけて、次第に財力を蓄えていく。美少女へと成長してきた姫を見ている翁は、このまま辺鄙な山奥に埋もれていたのでは、姫に幸福で華やかな人生を歩んでもらうことは不可能だと悟り、蓄財した膨大な砂金を使って『京の都(みやこ)』に出ることを計画する。

姫は貧しくても兄貴分の捨丸や友達と共に山野で遊ぶ毎日に満足していたのだが、『どんどん大きく美しくなっていくお前はいずれ俺などが手の届かない存在になるような気がする』といった捨丸の予言を成就するかのように、その日の夕刻、みんなで狩った雉を鍋にする間もなく翁・媼と共に都へいそいそと出発したのだった。

『山・自然・サンカ(賤民)』と『都・文明・貴族(帝)』の二項対立的な図式が、絶えず『かぐや姫の物語』にはあり、小さな姫は美しく成長すればするほどに周囲の思惑と羨望、求婚アプローチから後者の中心へと引き寄せられ、姫本人は『前者の自由・真心』を強く望みながらも『後者の管理された形式・環境』の中に閉じ込められていく。

翁は天から授かった姫に、この世で最高の幸せを与えたいと願い、姫を『権力・財力・位階(名誉)』へと近づけていく、より直截にはそれらを掌握する公卿の貴公子たちと結婚するための能力・環境をできるだけ整えていこうとする。翁はすでに『かぐや姫の幸せのための結婚』という当初の目的から外れ、『自分の権勢・見栄のための結婚』を意識するようになっており、思い通りに動かないかぐや姫や周囲に対しても怒りの感情を隠せない感じになっている。

高貴な姫君となるための基本教養から挙措・振舞いまで、宮仕えの経験がある女房のさがみからみっちり教育されるのだが、貴人としての天賦の才のある姫はさがみから一を習えば十をこなすことができ、表向きはふざけたり反発したりしながらも次第に『高貴な姫君』としての人生を受け容れ始める。

宮中の儀礼に通じた斎部秋田(いむべのあきた)から、『なよ竹のかぐや姫』という立派な名前もつけてもらうと、かぐや姫の神秘的なまでの美しさの噂を聞きつけた男たちが次々に求愛の手紙を送りつけてくる。やがて京の都でも最高に近いほどの位階・官職を誇る5人の公達の貴公子たちが、かぐや姫に対して求婚してくるが、かぐや姫は公達が自ら話した褒め言葉を逆手にとって、『伝説上の宝物・珍物を持って帰ることができた方と結婚します』という無理難題を押し付けた。

庫持皇子は“蓬莱の玉の枝”を職人に精巧に偽造させたが、押しかけてきた職人に賃金の未払いを訴えられてバレてしまう。石作皇子は“仏の御石の鉢”の偽物を持っていき言葉巧みに口説こうとするも、美しくない偽のかぐや姫の外見に驚いて去った。阿倍御主人は財産をはたいて“火鼠の皮衣”を購入したが、試しに燃やさせられるとあっけなく燃えて灰になってしまった。大伴御行は武人らしく“龍の首の玉”を真面目に取りに行こうとし、海難事故に遭遇して何とか九死に一生を得て帰ってきただけだった。石上麿足に至っては“燕の子安貝”を取ろうとして高所から転落、腰骨を骨折してその怪我が元で亡くなってしまった。

特別に悪いことをしたわけでもない貴公子を冷淡に振って酷い目にも遭わせている(それに対して何ら良心の咎めもない)ことから、『かぐや姫悪女説』のようなことが言われたり、『竹取物語が書かれた経緯』を反藤原氏の貴族による政権批判に求めたりすることもあるが、かぐや姫は当時の上流階級にあっては異例な『結婚しない女(結婚による地位・財産・安定を求めない女)』を題材にしたものである。

本作でも貴族あるいは帝と結婚させようとする翁に対して、『お父様がそれほど官位(私と帝との結婚の交換条件)が欲しいのであれば、私がひとまず結婚してから官位を手に入れられれば良いではないですか、その後に私は死にます』とまで言って結婚を飽くまで拒絶する。

平安時代の当時にフェミニズムや女性の自立思想・恋愛至上主義(取り決め婚否定)があったとは考えにくいので、『帝との結婚拒絶の物語』は天皇家の外戚となって(天皇の妃に一族の娘を宛てて子を産ませ)朝廷で専横を振るう藤原氏の婚姻政策に対する当てつけめいた批判の意図が込められているという見方もあるが、アニメではない原作では『帝とかぐや姫との心情的な交流(帝の気持ちに応えられない身の上であることの申し訳なさ)』もわずかながら描かれてはいる。

アニメ映画では、眉墨・お歯黒・非活動的な上品さの貴族文化を嫌う自然回帰願望をたぎらせるかぐや姫の姿が描かれ、身分と財力の釣り合いだけで結婚相手が決まる当時の貴族階級の結婚に対して『顔を見たこともなく話したこともない相手と結婚するなんて信じられない』という恋愛欲求が吐露される。

かぐや姫が思いを寄せているのは一貫して幼馴染の貧しい捨丸なのだが、捨丸との恋愛はかぐや姫が地球に下ろされた因縁とも関わっているようであり、感情の乱れや悩みのないはずの月の世界で『琴の音』を聴いて涙を流していた天女のサイドストーリーが語られ、かぐや姫は今はその地球に下りた経験があるらしき天女の気持ちがよく分かると共感したりもしている(その天女がかぐや姫本人である可能性もあるだろう)。

過去の因果を繰り返す輪廻転生のイメージがそこにあるが、かぐや姫が長年の都会暮らしの果てに捨丸に再会した時には、捨丸は既に同じ山暮らしの境遇にあるらしき女と世帯を構えて子を為してしまっている。『胡蝶の夢』のような刹那の幻想の世界でかぐや姫と再会した捨丸は、近くに妻子がいるにも関わらず『今からでもやり直せる、二人でどこまでも逃げよう』といって駆け落ちのような空中浮遊を始めるが、次の瞬間には捨丸一人だけが山中の草原にぽつりと佇み、巻き戻すことのできない時間軸が強調される。

巻き戻すことのできない時間、やり直すことのできない人生・関係がほのめかされる一方で、月の世界へと帰っていくかぐや姫が『類似した報われない恋・運命』を幾度ともなく地球と月の間で因果応報として繰り返しているような奇妙な感覚も味わわせられる。

“権力・財産・地位・儀礼”によって幸福が推し量られる京の都を否定する価値観や生き方の塊としてのかぐや姫は、“圧倒的な美貌の引力”によって大勢の人々の興味・欲望を引きつけて人生を狂わせたりもしていくのだが、かぐや姫は自分を『宝物(美しい客体)』と呼んで大切なモノのように扱おうとした人々・環境からひたすら疾走して逃げ延びようとする存在としても描かれている。

現代風に読み解けば、自分が好きと思える相手を選ぶことができ、周囲の人々の期待や思惑に雁字搦めにされる環境・立場からは距離を置き、自分の身体と頭脳を使って活動して生きることこそが最も幸せなのだという物語であるが、月に帰る以外の選択肢ができなくなったかぐや姫は、時に『運命に絡め取られる不自由・不可避の存在』としての人間の悲哀や諦観を象徴しているようにも思う。