『尊厳死・安楽死』の問題の根底にあるのは、“人間の身体・生命(生存権)”は自分だけのもの(自分の生死を自由意思によって選択できるもの)なのか、ある程度の公共性を帯びたもの(自分の意思だけでは決められないもの)なのかという倫理学的・直観的な判断である。
尊厳死が『自己決定権あるいは自己所有権の範疇』に含まれると判断するのであれば、尊厳死は法律的にも倫理的にも道義的にも認められるべきものとなるだろう。
だが、誰も被害者がいない売買春・マリファナ使用が法律や倫理で禁止されている国が多いように、『自己所有権・自己決定権(自分の生命・身体なんだからそれをどのように用いようが他者を傷つけない限りは自由という主張)』には一定の他者のまなざしや印象、影響と関係する制約がつくことも多い。
医学・医療の目的は、病気・怪我・障害を治癒したり改善させたりして患者の生命を救うことにあるという原則論も関係するが、患者を消極的に死に近づける尊厳死までも“QOL(生活・人生の質)の向上”に含めても良いのかという問題も生じてくる。
尊厳死は『患者自身が主張する人格と生き方の尊厳を守るために医学的な延命治療を行わずに自然に死に至らしめること』であり、安楽死は『患者の苦痛や絶望を取り除くために投薬などの処置を行って人為的に死に至らしめること』である。
国際的に見ても、回復不能な末期症状であるか耐え難い苦痛があるかどうかを問わず、ただ生きたくないと本人が希望すれば安楽死を行うという積極的安楽死(苦痛のない自殺幇助)まで認めている国はゼロである。無条件の積極的安楽死を禁止することは、リビングウィル(生前の意思表示)や申請書を偽造されるリスクがあり、『殺人』と『安楽死』の境界線が不明瞭になるので当然といえば当然である。
また、延命治療を敢えて行わなかったり中止したりする『消極的尊厳死』は、筋弛緩剤を投与するような『(末期患者への)積極的安楽死』と比べれば医療者の罪悪感は小さいと推測されるが、それでも延命しようと思えばできる患者を本人の意思表示に従って死に近づけることに、一定の罪悪感・後悔・苦悩を感じる医療者もある程度は存在するだろう。
現代では臓器移植法案に象徴されるように『脳死=人間の死』とする定義が一般化しつつあり、『自我意識の不可逆的かつ永続的な喪失(大脳皮質の器質的な死)』があれば、その人間は死んだものと見なすことができる法的な定義が整備されてしまっている。
回復の見込みがなくて外界・自己を永続的に認識することができない(必然的に永遠に意思疎通・意思表示もできなくなり現実世界や他者とアクセスもできない)のであれば、『自分にとっての生存の意味・価値がなくなった』と見なす人が多数派を形成していることから、尊厳死を法制化して認めて欲しいという訴えは今後も強まるだろう。
尊厳死は設備の整った病院に入院していなければ『自然死』と言い換えることもできるが、現代社会では多くの人は最期の時を『自宅・外界』ではなく『病院・老人ホームなどの管理された施設』で迎えざるを得ず、そこに医療の人材・設備・薬剤などがある限り、『尊厳死は見殺しなのではないかとの解釈』の余地を生み出してしまう。
致命的な病気・怪我も含めて自らの寿命が燃え尽きるのを待ち、自然に生きて自然に死ぬということなどは、よほどの偶然に恵まれなければできない時代であり、『治療・救護の能力や義務、職責を持った人たち』との関わり合いがどうしても生じることになる(医療に従事する人たちのケアや手助けは生命が助かったり病気が治ったり苦痛が和らいだりといった多くの状況ではありがたいことでもあるが)。
尊厳死を実際に行う末期の病状になれば、脳死にまで至らないとしても殆ど自分自身の自我意識や価値判断、他者を認識して自分の考えをきちんと伝達することは不可能になることから、『リビングウィル(生前の意思表示・遺言書)』によって自分が意思表示不能な末期状態に陥った時にどうして欲しいのかを正確に示しておかなければならない。
尊厳死の倫理学的な問題点としては、『医療費削減・高齢者社会の経費削減という財政負担緩和の目的』が背景に隠されていることもあること、『尊厳死の増大や一般化によって尊厳死を選ぶことが当然という心理的・社会的な圧力』が生じる恐れがあることも合わせて考えておきたい。
しかし、病状回復の見込みがなく自分の意識・感情もない中で、人工呼吸器をつけて胃瘻をして延命されるということは、人によっては『人格的・外形的・価値観的な尊厳の侵害』や『原理的に無意味な生存の状態』として感じられてもおかしくはないのであり(そうは感じないという生存の意志を持つこともまた自由であると同時に尊重されなければならない)、日本で議論されている尊厳死は『消極的な死を選択する権利』というよりは『延命治療を拒否する権利』の文脈で捉えたほうが問題点は少なくなるだろう。