映画『47RONIN』の感想

総合評価 76点/100点

ハリウッド版の『忠臣蔵(赤穂浪士)』だが、冒頭の浅野内匠頭長矩(田中泯)の狩猟に巨大なモンスターが登場するように、VFXの激しい剣闘を楽しむためのファンタジーアクション映画として再構成されている。天狗に育てられたとされる頭部に傷を持つカイ(キアヌ・リーブス)は、天狗の里から逃げ出す途中の山中で行き倒れになっていたが、浅野長矩の計らいで一命を助けられる。

しかし、日本人と白人の混血であるカイは成長すると共に激しい身分差別を受けることとなり、穴蔵のような粗末な小屋で動物以下の厳しい生活を余儀なくされる。天狗より教わった剣術と秘術は強力なものであり、怒涛の勢いで突進してくるモンスターを狩りに出かけた狩猟では劣勢に追い込まれた侍に代わって討伐する実力を示す。だが、自らは狩猟を許されていない身分であり、その手柄を助けた侍(自分を日頃から侮蔑している侍)に譲ったりもする。

浅野長矩の娘のミカ(柴咲コウ)とカイは幼馴染であり、カイとミカはお互いに思いを寄せ合っているが、領内の誰もカイを『侍(武士)』として認めることはなく、最下層の身分として遇されるカイがミカと一緒になることは許されなかった。播磨国赤穂藩の豊かな所領への野心を募らせる吉良上野介(浅野忠信)は、不思議な呪術を駆使する妖狐のミヅキ(菊地凛)を側室としており、ミヅキの呪術を用いて浅野内匠頭を乱心させ、将軍・徳川綱吉が宿泊中の屋敷で自分を斬り付けさせた。

綱吉から切腹の処断を言いつけられた浅野内匠頭を腹を切るが、浅野の後継者に指名されてミカとの婚約を認められた吉良は、浅野の忠臣全員を即座に解雇して俸禄・名誉のない浪人の身分へと落とした。

吉良上野介の陰謀を察知した大石内蔵助(真田広之)とその息子の大石主税(赤西仁)らの家臣団は、主君への忠義を貫徹するために『吉良への復讐』を誓い合うが、大石内蔵助は有力な戦力となり得る異邦人のカイを求めて長崎県出島にある見世物の格闘場へと赴く。カイは主君浅野の切腹後に奴隷商人に連れ去れられて、長崎の出島に送られていたのである。

長崎県の出島で、戦闘本能に機械的に突き動かされるカイとの一騎打ちに臨んだ大石内蔵助は、カイの優れた剣術の腕を確信して復讐の味方へと組み入れようとするが、大石自身がカイを異質な外国人として差別していたように、家臣団の中にはカイを仲間として認めようとはしない者も多く含まれていた。戦うための刀・槍の武器さえまともにない大石らは、カイに武器の調達をどうすればいいかを相談するが、カイは幼少期を過ごした天狗の里に武器があると答え、それを手に入れるためには天狗の幻術から繰り出される試練に耐えなければならないという。

カイのお陰で良質な刀剣を手に入れた浅野の家臣団は、カイに対する信頼や友情を次第に深めていき、強力な軍勢を備えてミヅキの妖術の支援も受ける吉良の陣地へと仇討ちのための侵入を企てることになる。

アメリカ人(キアヌ・リーブスはカナダ出身らしいが)から見た忠臣蔵や武士の主従関係、儒教道徳(身分制度の秩序)のエッセンスをパッケージングした映画で、おそらくキアヌ・リーブスは『切腹の処罰や思想・演技』に特別な思い入れがあったのではないかとも思うが、欧米から見ると『名誉のための切腹(自害)・理不尽な主従関係』というのはある種のオリエンタリズムの異国情緒や怖いものみたさをくすぐるものではあるだろう。

日本の武士が死刑(斬首)よりも切腹を好み名誉とする文化習俗、その起源は安土桃山時代の豊臣政権の頃にあるとも言われるが、『他者からの強制的な断罪』ではなく『自己による覚悟の上の自決(責任履行)』に武士としての迷いのない清廉な潔さを見たとされる。

儒教的な主従関係の絶対性は『主君のいない武士(浪人)』の存在そのものを恥とするようになり、江戸初期まで主君の死の後追いをする『殉死の追腹』が義務化された時期もあったが、初代会津藩主の保科正之によって廃止されるまで蒼古的で理不尽な殉死の慣習が続いたともいう。明治期に入っても明治帝崩御で乃木希典が殉死の事例もあり、主君が死ねば家臣も死ぬべきとする儒教的な忠義の価値観は維新後にも残っていた。

日本人の俳優陣の中にキアヌ・リーブスがひとり入っているという図式には新しさもあるが、ストーリーは忠臣蔵のファンタジー風のアレンジであり、アメリカ人のテンプレートなイメージとしてある『侍の美学としての忠義・切腹』をなぞったものに過ぎないという感はある。