総合評価 90点/100点
祖母・松乃の死をきっかけにして、祖父の賢一郎(夏八木薫)が『二人目の夫』だったことを初めて葬式で知らされた佐伯健太郎(三浦春馬)は、祖母の初めの夫である宮部久蔵(岡田准一)が鹿児島県の鹿屋航空基地から米艦船に突撃した特攻隊員であったことを知る。
母・清子の血縁上の父親は賢一郎ではなく、特攻隊員として散った宮部久蔵であり、健太郎はフリーライターの仕事をしている姉・佐伯慶子(吹石一恵)の勧めもあり、実の祖父である宮部久蔵がどんな人物であったのかの調査を始めることになった。
ラバウル航空隊に所属していた元海軍のパイロットや戦友たちから嘲笑混じりに聞かされるのは、『海軍一の臆病者・卑怯者』『何よりも命を惜しむ情けない男』『戦闘を避けて逃げ回っているばかりの奴』など散々なもので、健太郎は話を聞く度に暗く情けない気持ちになり、調査を続行する気力を失いかけていた。
しかし、末期がんで病床にある元海軍の井崎(橋爪功,青年期:濱田岳)の話はそれまでの戦友の話とは異なっており、『宮部さんは圧倒的な凄腕のパイロットだったが、奥さんや娘の元に会いたいという思いから何としても生きて帰りたいといつも口にしていた。あの時代にそんな意思を持つこと自体が強い人だったという証拠だ。自分も死ぬことを考えず何が何でも生きる努力をしろと励ます宮部さんによって生命を救われた』といったことを語ってくれた。
右翼の大物らしき景浦(田中泯,青年期:新井浩文)にインタビューした時に、『うちの祖父は逃げ回るだけの臆病者だったらしいですが』と笑いながら前置きした健太郎は、景浦に切りつけられるような剣幕で叩き出されたのだが、井崎の話を聞かせてもらいもっと祖父の過去を詳しく知りたいという思いで、深夜に景浦の自邸を再訪する。
景浦は『なぜ奴が最終的に特攻に志願したかは分からないが、臆病者が特攻なんかできると思うか。宮部を腰抜けだ卑怯者だと非難していたそいつらはしっかり生きて帰ってるじゃねえか』と語りながら、零戦の指導教官を務めていた宮部久蔵との因縁めいた思い出話を語り始める。
景浦は宮部久蔵とは徹底的にソリの合わない戦闘機乗りだったが、敵機に勝負を挑み撃墜し続けるストイックな剣客のような心持ちで零戦に乗り続け、『乱戦から離れて自分を守ろうとする逃げ腰の宮部』を技術は多少あるかもしれないが実戦で役に立たない臆病な教官なのだと舐めてかかっていた。
自分の零戦の操縦と戦闘に絶対の自信のあった景浦は、強引に宮部久蔵に戦闘のシミュレーションを仕掛けて挑発するが、圧倒的な宮部の技術の前に背後を取られ返し、焦燥感と緊張感から宮部の機体に対して実際に機関銃を発射してしまった。味方に対する攻撃は、完全な軍法違反で死刑もあり得る重罪であるため、景浦は宮部に『俺が撃ったのだから俺をさっさと撃ち落とせ』と覚悟を決めるが、宮部は景浦を攻撃する姿勢など微塵も見せずにそのまま帰投した。
宮部は国家主義(天皇崇拝)にも玉砕覚悟の民族精神主義にも染まっていない凄腕の戦闘機乗りであり、妻の松乃(井上真央)や生まれたばかりの娘にもう一度会うために何が何でも生きて帰るという目的を定めて、できるだけ撃墜される恐れのある乱戦からは離れて任務を遂行している。
だが、周囲にいる戦友たちからすれば『あいつは戦闘に加わろうとしない臆病者だ・仲間が次々死んでいるのにそんなに命を惜しんで恥ずかしくないのか』という低い評価に行き着かざるを得ず、零戦の操縦技術はずば抜けているが、国家・天皇に忠誠を尽くす覚悟がなく自分の命ばかり惜しむ臆病者と軽蔑されていた。
横浜でわずかな時間だけ一時帰宅することができた宮部は、娘の清子(健太郎の母親)と初めて会って一緒に風呂に入って洗ってあげる、裾にしがみつく妻の松乃(井上真央)に絶対に死なずに生きて帰るという約束を固く交わして再び戦地に戻っていくのだが、戦争末期の激しさを増す航空戦は、凄腕の宮部といえども今までとおり『確実な生還』をすることが難しい情勢になりつつあった。
しかし、宮部久蔵の生命や人生の尊重は、自分ひとりだけに寄せられるものではなく、自分の仲間やまだ学生の教え子たちにまで及ぶものであり、宮部は教官として教えている10代の予備役の青年たちが特攻隊として出撃させられないように、わざと飛行技術検定で『不可』を出し続けてもいた。
国家主義に突き動かされて早く戦場に飛び立ちたい思いに燃える教え子たちは、そんな宮部の思いをよそに、『あいつは戦場で逃げ回っている臆病者だと聞いたぞ。俺たちに不可を出し続けているのも、自分よりも優れた戦闘機乗りにしたくないからだろう』といった陰口を叩く。
ある日、零戦の特攻攻撃の飛行訓練の途中で教え子の一人が、零戦の故障で地面に衝突し事故死してしまうのだが、上官が『この時勢に貴重な戦闘機を無駄にしやがって、この役立たずのバカどもが』と罵ると、宮部は頑強に上官に反論して訂正を要求し、鉄拳制裁でボコボコに殴られ続ける。
飛行技術の試験で教え子に絶対に可を出さないことについても、『貴様は自分の生徒に特攻をさせたくないから可を出さないんだろう』と責められ更に殴られるが、宮部久蔵の自分たち教え子に対する死なせたくないという真意を知った生徒たちの宮部を見る目が尊敬のまなざしに変わってくる。
この教え子や仲間を思う宮部の気持ちの高まりが、自分ひとりであれば何とか果たすことができたかもしれない『松乃との約束の履行(確実な生還の道)』を閉ざしていくことになる。零戦操縦の技術的なレベルにおける生還可能性はあっても、宮部は自分よりも先に10代の若い青年が特攻で死に続ける精神的なつらさに耐え切れなくなってきており、大勢の死を見つめ続けてきた影響で半ばうつ病的な心理状態に追い込まれてもいた。
どうしてあれほど生き残ること、松乃・清子と再会することに執着し続けて頑張っていた宮部久蔵が、自ら死ぬことが確実な特攻隊に志願することにしたのかの秘密が、物語の後半で解き明かされていき、意外な人物相関の図式も浮かび上がってくる。
戦友を見捨てる臆病者であるかのように侮辱されていた祖父の宮部久蔵の孫・佐伯健太郎に対する名誉回復が次第に図られるという流れは、『保守主義的な大東亜戦争の歴史認識の転換』をイメージさせる向きもあるように思うかもしれないが、この映画の主題は戦争や軍部、国家といったものよりも、『当時を生きた一人の人間の生き方や人間関係、思いの叙情的な描写』のほうにある。久蔵と松乃の夫婦の情愛、遂に約束を果たせなかった久蔵と娘への思い、夫を失って生活に困窮した松乃の再婚に至るまでの怒涛の展開が、映画後半のかなりの部分を占めている。
『永遠の0』は国家・天皇のためではなく家族・仲間のための不可避な自己犠牲の側面がクローズアップされている戦争映画だが、当時の国民教育や民族イデオロギーに影響されていない『生存』にこだわる宮部久蔵を主人公に設定したことで、現代の感覚からも共感しやすいストーリーになっている。歴史的な戦争に対する善悪の価値判断を交えず、戦時を生きた一人の人間の生き様や信念、思いを追体験できるような物語構成は巧みであり、零戦の戦闘シーンなどの映像表現も邦画としてはかなり高いクオリティに仕上げられていると思う。