『人からどう思われるか(他人の目線)』にこだわりがちな日本人らしさ

を完全に無くすのはなかなか難しいかもしれない。

『人からどう思われるか(他人の目線)』を気にせずに、自分の主体性や思想信条を確立して臆せずに率直な意見・感情の表現をしながら、自己と他者の異なる意見をぶつけ合って統合・納得するという『近代的自我(脱亜入欧の自律的な人間像)』は長く日本人の憧れであった。

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だが、実際には他者(自分を取り巻く人)のまなざしや共同体の同調圧力から自由になれた『近代的自我を発現できた日本人』はかなり少なかったのではないかと思うし、日本の地域社会・企業社会の中枢に近づけば近づくほどそういった近代的自我は抑圧されやすい。

対人恐怖症(社交不安障害)がかつて日本に特有な文化結合症候群と呼ばれたように、日本人は『世間体・体裁といった他者の評価のまなざし』を強く意識したムラ社会的な調和の人生設計や無難な自己呈示を是とする社会を古代から作り上げてきたということもある。

恋愛のノウハウの話から少し逸れるが、『視線恐怖(まなざしてくる他者から自分をなにか評価される恐怖)』も平安王朝以前の貴族社会からあったと言われたりもするが、身分が高貴な人間は下位の人間の目線(値踏みのまなざし)を直接浴びなくて済むように御簾・衝立(みす・ついたて)などを置いて遮った。

日本人は元々相手の目をしっかりと見つめるような形で話をしない民族であり、欧米人のようにしっかりと目を合わせて会話するスタイルには緊張感・気恥ずかしさ(気後れ)を感じやすい。あまりに相手の目を見据えて話をすれば、良い意味でも悪い意味でも『相手がなにか自分に特別な印象・感情を持っているのではないか』という誤解を招きやすいし、ヤクザ者が『眼(ガン)をつけてんのか』と因縁を掛けるのも『他人に見られる側に回ること』は一般にも恐怖・不快を感じやすいからであった。

日本は『恥の文化』、欧米は『罪の文化』という使い古されたルース・ベネディクトの二元論的な文化論(『菊と刀』)もあるが、日本人が半ば反射的に『他人に自分がどう見られているか』もっと言えば『他人から自分が劣っているだとか変だとか思われていないか』と考えてしまうのは、長い歴史的プロセスの根拠があるムラ社会の生存方略の一種だったからだとも言える。

そういった他人のまなざしや世間体への適合を考えない人は、昭和中期以前の日本社会(特に地方の農村漁村・重厚長大なレガシー企業など)では生存適応度が低くなりやすかったと推測されるわけだが、この文化的・生活環境的な傾向性は『調和・協調・連帯』の効果をもたらすと同時に『抑圧・村八分(いじめや排除)・面従腹背』といった負の側面も生み出した。

かつて日本の原風景の残る農村・漁村では、子供の躾に際して『そんなことをしたら笑われるぞ・どうしてお前だけがみんなと同じことができないんだ・世間様に顔向けができない』といった恥の文化(同調しないと恥ずかしい・居場所がなくなる)を逆手にとった躾をして、『みんなと違うことや大勢に合わせないこと=恥ずべきこと・笑いものになること・排除されること』だと教えてきた。

今でも一定以上の年齢の人には、世間体・体裁などに関して典型的な恥の意識を価値観の中枢に据えていることが多いが、これが『他人からどう思われるか』に自分の人生や選択が拘束されてしまいやすい日本人らしさや対人恐怖症的な心理を形作ってきた。欧米社会にもシャイネスや対人恐怖はあるが、そのレベルや発生頻度は明らかに日本よりも低く、『みんなと違うことで他人に危害を加えるわけでもないこと』は恥や欠点というよりは個性やセールスポイントと見なされやすい。

日本の『恥の文化』は、ムラ社会的な協働社会や同調圧力の中で、自我の安定(自分の居場所)を『他者(他者から仲間・身内だと認められること)』によって支えられてきたことに由来し、日本では欧米のキリスト教圏のような『(人間を超えた)絶対者』を世間や他人よりも優先して信仰した歴史がそもそもない。

絶対者としての神の不在は、絶対的な価値観や規範、理念、言葉の不在を意味しており、日本人は一般に『宗教の絶対的な観念・思想哲学の普遍的な理念・演説やロジックの論理的な説得力』などには心を揺り動かされにくく、本心からそういった人間社会や個別の他人の評価を超えた『神・理念・言葉』が力を持つとは信じていない。

最終的に日本人の行動選択を決定するのは『他人のまなざし・帰属共同体の大勢』であり、『罪の文化』のように絶対的な神や倫理に照らし合わせて自己の行動を評価することがほとんどなく、『周囲にいる他者・世間の大勢』がそれで良いといっていれば安心してそれに賛同・調和してしまうところがある。

日本人は歴史的に見ても『絶対的な信仰・哲学・知識によって支えられる個人』がほとんど存在しなかったし、また世間や他人の大勢に反対して自分の信念や論理を押し通そうとする個人は、幾ら優れた人物であっても共同体から排除されたり懲罰されたりする危険性のほうが高かった。そもそも近代以前の日本には『個人』や『社会』といった日本語の言葉自体が存在しなかったのであり、個人と社会共同体は暗黙の了解で一体的で同調的なものと見なされており、それに合わせない人というのは『互助をする仲間・内輪の範疇』から外されていたのである。

日本人は『他の人・世間』を恐れて欧米人は『神・普遍性』を恐れたというのは、日本社会において不安定で脆弱な自我を支えたのが『他の人』であったからで、欧米社会では不完全な他の人よりも『絶対的な神(普遍的な規範)』のほうに自我を支えられると同時に恐れたからである。

日本人の多くは『神・原罪・思想的な良心』などは痛くも痒くもないし、本音の部分でそういった超越的で絶対的な観念は『人間の手による作り話』だという冷めた気持ちがあるので、『表面的な信仰・参拝』があるからといって本心から神仏に帰依してその罰や死後の裁きを恐れている人などはなかなかいないのである。

日本人が恐れるのは絶対者の神だとか普遍的な法・論理だとかではないので、『悪いことをしたという事実そのもの』で味わう内面的な苦悩は一般に欧米人よりも弱いとされ、『告白・贖罪の文化』は歴史的にもほとんど形成されず、『世間からの社会的制裁・村落共同体からの排除』というのが最高に恐ろしい実際的な罰だった。

恥の文化においては、悪いことをした時点や行為そのものに対する罪悪感(内面の苦悩)は弱いが、自分が悪いことをしたことが世間や知っている人にばれてしまうことが最高に恐ろしい。

そのため、ちょっとした軽犯罪や迷惑行為であっても『家族だけには・会社だけにはどうか言わないでくれ』と土下座せんばかりに懇願する人は少なからずいるし、その理由はただ会社をクビになる(経済的に困る)というだけではなく、『社会における自分の居場所』がなくなり笑いものにされて恥ずかしい思い(とりかえしがつかない不名誉の烙印)をさせられるからである。

そこには絶対者である神を想定したり、普遍的な倫理や法を意識したりして、『自分はなんと罪深い存在なのか』と内省するような態度はほとんどなく、『知っている人に悪いことや情けない姿を知られてしまった、もう合わせる顔がないどうしたらいいんだ』という世間や他の人が自分を悪く思っているから怖いという以上の内的苦悩の深まりが乏しい。

『他の人にどう思われているか』を気にして世間の大勢に合わせることには良い面も悪い面も両方あるし、『絶対的な存在・原理に照らし合わせて善悪を判断すること』にも功罪が相半ばするところがあるが、この『恥と罪の文化』というのは歴史的・社会的経緯を併せ持つ無意識化された感受性・行動指針なので簡単に切り替えるということができない。

ニュース記事に戻って話を締めると、『人からどう思われるかを気にし過ぎて、大切な自分の夢や、心から信頼できる恋人を得る機会を失わないように、今年は「人からの評価」を少しあきらめてみる』ためには、『他人の評価・承認』に常に頼らなくても良いだけの『普遍的・絶対的な基準や根拠(神とまでいかなくても他人のまなざしよりも重きをおける判断基準)』を確立しなければならないということになる。

確かに、他の人の意見や批判、まなざしに左右されずに、いつも自分の信念や価値観、感情を率直に表現して貫き、異論・圧力と対決してでも自己アイデンティティを確立するという生き方は、『日本人らしさの対極にある欧米人的な自律性・主体性』として憧れられてきた。

だが、こういった世間や他者に頼らずに自己アイデンティティを観念的・普遍的に確立できた個人というのは、信仰・思想を本音では信じられない日本人(頭の中だけの観念や普遍性を唱える言葉の力を社会集団・他人よりも格段に弱いと見なしてきた歴史)ではやはり極めて稀有と言わざるを得ない。

根拠が不確かで不合理的・無意識的である『文化規範のモード(日本的な恥・調和と迎合の文化)』を自由に切り替えることは欧米人(罪・理念の文化)の側にあっても簡単なことではないだろう。

また、日本人が罪と理念の文化の国であったのであれば、第二次世界大戦に敗戦しても今ほど柔軟かつ迅速に自由化・民主化できたとは思えない、日本は良くも悪くも『社会・世間の大勢(支配的な時代の空気・影響力)』を察してそれに敏感かつ素早く合わせることができ、世間の大勢が『昔の価値観に従わない選択』をするのであれば、安心して自分も新たな価値観に合わせることができるということになる。