浅田真央選手がFPで自己最高の142.71点をマークする素晴らしい演技を見せて、SPの不運を払拭するような満面の笑顔を浮かべた。順位も16位から10位まで大幅に上昇させた。キムヨナ選手はSPとFP共に安定感のある演技を見せて銀メダルを獲得、競技種目の総合成績ではライバルとして並べられることの多い浅田真央を上回ったが、二人の選手の演技はメダルの有無・点数の高低だけでは測れない素晴らしいものでもあった。
フィギュアスケートという競技種目は、横に並んだ相手と直接競い合うスピードスケートやスノボークロスなどと違って、『観衆に見られる自分の意識との戦い』がダイレクトに結果に結びつく種目、横にいる相手に負けまい(抜かせまい)とする剥き出しの闘争心ではなく、『高度な自己制御・自己管理』が常に求められる緊張度の高い種目だと感じる。
そもそもフィギュアスケートは、スノボークロスのように自分の横で同時に競い合っている他の選手がいない、自分の順番が回ってきた時にどの選手も自分一人で滑って観客が注視する中で最高の演技をしなければならない(スノボーハーフパイプなど同じような種目は他にもあるが)。
今まで何百回、何千回と練習を繰り返してきて、練習では相当に高い確度で決めることができる高度なジャンプ(トリプルアクセルなど)であっても、本番の一回勝負では『練習時の確率論』では考えにくいミスや転倒が連続することがある、それは本番と練習のメンタルや空気の違いとしか言い様がないものでもある。
トリノ五輪でも、安藤美姫が練習や前大会に遥かに及ばない演技・成績でバッシングされたりもしたが、誰であっても五輪出場選手は自分にとってのベストを尽くそうとする気持ちに代わりはないわけで、『気を抜いたから(集中力・やる気が足りないから)普段の実力が出せない』ではなく『気を入れすぎたがために(ミスを恐れて集中・緊張が過剰になり身体がこわばったがために)普段の実力が出せない』ことのほうが圧倒的に多いだろう。
前評判の高い有力選手はやはり概ね本番でもメダル争いに加わってくるものだが、『メダル争いに加われて当たり前(順当なら金メダル、不運なミスがあっても銀メダル)』といった非常に大きな期待を背負っている選手のプレッシャーは並々ならぬものがあり、民族主義的な熱狂(スポーツと国家の威信・国民の誇りの結びつき)が強固だった時代には、日本でも期待に見合う成績を残せなかったストイックな自責感の強い陸上選手が自殺した事例なども起こっているほどである。
少なくない選手が『とにかく思いっきり楽しみたい・普段の自分のプレイ(演技)をしたい』と言うのは、そういったオリンピック固有のプレッシャーや緊張感を自己暗示で和らげる意図もあるように思う。
中には『とにかく勝ち負けにこだわらなければならない・国民の血税や期待を担っているのだから結果を残すべきだ』という発破・発奮のつもりの圧力をかける人もいるが、競技選手のメンタルにとって『勝たなければならない・一切のミスや失敗が許されない・わずかな身体感覚の狂いもあってはならない』という完全主義欲求(ミスの全回避の注意)が強くなればなるほど、普段の出せて当たり前の実力を出しづらくなる恐れもでてくる。
そもそも結果が重視される競技において良い成績を残し続けてきたからこそ、五輪の舞台に上がれているわけだから、有力視されている(有力視されていなくても)五輪代表選手で本気で『結果はどうでもいい・ただ楽しめばいい』と思っている人は少ないわけで、『勝たなければいけないという緊張感・義務感の緩和=本来の実力(それ以上の実力)を出しやすいメンタル(心身の自己制御感)への誘導』こそが課題になっているのではないかと思う。
現代のフィギュアスケートの東アジアにおける盛り上がりが、浅田真央とキムヨナという対照的なキャラクターや演技のスタイル、メンタルのあり方をイメージさせる二人のライバルに支えられてきた側面は大きい、『過去の競技の戦績のせめぎ合い』から次の試合の結果が気になるというフィギュアの歴史性が意識されたりもした。
浅田真央とキムヨナのお互いに対する感想・評価が、ナショナルな民族の対立や周囲の過剰な自己投影に囚われない切磋琢磨し合うライバル意識であり、『スポーツマンシップとヒューマニティに基づく近しいレベルの好敵手(同時代のトップ層のフィギュア選手として良い刺激を受けたり与えたりしてきた相手)』に対する好意的な評価だったことも爽やかな印象を与えてくれた。
ロシアで開催されているソチ五輪では、開会式早々からオバマ大統領をはじめとする欧米諸国の首脳が政治的理由(ロシアの人権問題・同性愛禁止問題・分離独立のテロや内紛)で参加を辞退するなどの『政治色』が滲んだが……浅田真央選手やキムヨナ選手に限らずそれぞれの競技種目に全力でフェアプレーの精神で取り組み、ライバルの健闘を合わせて讃える選手たちの姿は、本来、近代オリンピックの精神としてあるべき『平和とスポーツの祭典の原点(国別・民族別の勝ち負けだけが全てではないスポーツそのものの魅力や面白さ)』を思い出させてくれるものでもある。