内閣総理大臣と『憲法解釈権』が結びつくと、『立憲主義・三権分立の歯止め』がなくなる。

内閣総理大臣に『憲法解釈権』があるとするならば、内閣総理大臣は旧帝国憲法下における主権者の天皇以上の権限を持つことになるわけだが(昭和天皇でさえ立憲君主であることを自認され天皇機関説を支持されていたわけで)、『憲法解釈を司ることができる個人の代表者』というのは英国のマグナカルタ以前の専制君主、市民の第一人者(民意の集積者)として月桂冠を被った古代ローマ皇帝のようなもので『近代化された国制・法制の否定』の願望のようなものである。

ブルボン朝のルイ14世は『朕は国家なり(朕を制約する上位法はない)』とのたまったとされるが、君主制への逆行は冗談にしても選挙で選ばれた政権党の代表者(首相)が、憲法解釈を自分の思想信条で左右して立法措置(政策遂行)までできるというのはいずれ時代錯誤な話ではある。選挙で勝っただけの政権与党が、イコール憲法原則の中身であるはずもない。

解釈改憲で安倍首相擁護=渡辺みんな代表

安倍首相は立憲主義の本質を理解していないという批判をされているが、首相は国会答弁において『国家権力を制約するという意味の立憲主義は、絶対王政時代のものであって民主主義の現代にはそぐわない・選挙による審判や大多数の国民の民意があれば、国家権力を立憲主義で制限する必要がない』という持論を語った。

民主主義を『原理原則の存在しない単純な多数決』と考えて、『近代のファシズム(多数派政党による憲法停止・非常事態宣言=異論排除・人権軽視・国益固守の総動員)が引き起こしてきた悲劇』からの学びを不要としているようにも見える。

現代の民主主義を、古代ギリシアのアテナイやスパルタで行われていた『排他的な運命共同体の多数決原理(みんなで全会一致で決めれば何をしても良い)』と同一視して貰っては困るし国民にとっても危険である。現代と古代の民主主義の違いは直接民主制(市民投票による立法)か間接民主制(代議制)かの違いだけにあるわけではなく、『立憲主義が包摂する歴史的な学び・自由主義・人権思想』が民主的意思決定の原理原則として機能しているかにあるのである。

立憲主義は政治や国民が過ちを犯し得る(過去に政治の暴走によって国民が死んだり権利が侵害されたり道具的に使役されたことがある)という常識に立脚して、『これだけは遵守すべきだとする政府(議会多数派の政権与党)によっても覆せない原理原則』を示し、その原理原則を敢えて覆すためには厳密な改正手続きを踏まなければならないとするメタフレームで権力を制約する考え方である。

厳密な改正手続きを踏んだとしても『憲法停止(非常事態宣言)・人権停止(国民の隷属化)・言論や思想の弾圧・外国や異民族の侵略支配』という近代的憲法を否定する憲法(人道・倫理・個人の尊厳を蹂躙する内容を含む憲法)までは制定できないという近代的な立憲主義のメタルールも暗黙の了解としてある。

その意味でも多数派を掌握した政権与党やその代表者、一つの方向性に賛同(熱狂)する国民が何でもできるというわけでは当然ないが、『集団的自衛権の行使可能性=実質的には、日米同盟に基づく日本が金と汗と血を流す可能性のある協力範囲の拡大』は自衛隊の留保つきの海外派遣や非戦闘地域での復興協力・物資支援といった今までの解釈改憲のレベルを遥かに飛び越えたものである。

『憲法条文・自然権(個別自衛権)からの類推』あるいは『歴史的な憲法解釈の延長』によって正当化することができない拡大解釈であり、集団的自衛権を戦闘犠牲者が出たり、外国の対米戦争に巻き込まれる可能性のある形で行使するとするのであれば、正規の憲法改正の手続きを避けて通ることはできないだろう。

何か問題が起これば、最高責任者として責任を取ればいいといっても、現行憲法や現行法によって『解釈改憲によって想定外の犠牲者・損失や戦争事態(集団安保間の戦争・テロ)への巻き込まれが起こった場合』に、内閣総理大臣にどのような責任・罰則が追及され得るのかの規定がそもそもない。ただ議会と世論で行き詰まった首相が辞任して解散総選挙に雪崩込み、国政が収拾の難しい混乱に陥るだけにもなりかねない。