更に、モノはあっても売り切れない。これらは日本が直面している『豊かさの中の貧困・近未来の人材不足(人口減少)・価格競争(ダンピング)と平均所得の下落(中流崩壊)・仕事と消費の選好(選り好み)の強さ』を予見する現象である。
行政は収税と公的事業に『一切の無駄がないという建前・予算を減額する余地がないという組織の論理』によって、予算を使い切ることに対する半ば強迫的な義務感を持つことが常であり、予算が余って積み上がっていくことはなかなかなく何らかの公的事業・インフラ整備・備品購入などで調整される。
だが、岩手、宮城、福島の3県と各市町村の『震災復興事業』では市町村の復興ビジョンやそのための具体的な工程表・仕事の割り当ては描けていても、その実務を担って必要な予算を使う職員と労働者の絶対数が不足しているため、復興基金のお金だけが積み上がっていく。
お金があれば大抵のことは何でもできるとは良く言われるが、『お金と交換で必要な仕事をしてくれる労働者(人間)の供給量』が十分になければ、大規模な事業やきつい仕事、大勢の専門家を要するプロジェクトになればなるほど、お金はあるが仕事は進まない、物事は動かないという結果に陥る。また低賃金や労働の厳しさ・単調さ(あるいは反対に難易度・専門性の高さ)を嫌って応募がこない種類の仕事は、生産性や利益率が高いわけでもないので『必要な人員』を集めるために、青天井で時給・日給・基本給を上げて人を集めるということはできない。
予算やお金があっても使い切れないという問題は、日本の超高齢化社会における高齢者層の貯蓄(デッドストック)とその国債化の現象のからくりでもあり、仕事や雇用があっても雇い切れないという問題は、フリーター・無職の層が厚くても土木建設・介護・医療・販売(接客を伴う店舗管理)などを中心とするいわゆる3K労働(体力や感情を機械的に酷使したり対人ストレスが強い職場)には人が集まらなくなっている現象の原因でもある。
モノは有り余るほどにあっても売り切れないというのは、デフレ経済や価格破壊(価格競争の過剰性)の象徴的な現象であり、それは『欲しい商品・サービスが少ないという選好』もあるが、それ以上に『モノの豊かさ・品質の高さに対して給与水準の高さ・収入の増加率』が追いついていないからである。
仕事や雇用があっても雇いきれない、募集している仕事の給料が内容の割には安すぎて労働意欲が高まらない(必要な人数が集まらない)といった問題が行き着く先に、『肉体労働・感情労働・サービス業を中心とする人材不足』と『段階的に高齢化・人口減少が進む超高齢化社会』の危機感を前提とした『移民政策の検討』がある。
移民政策は安価な労働力を補填するという自国の都合だけを優先した考え方では、『文化社会的な融和・人口ボリュームの拮抗・参政権要求と各民族ごとのコミュニティ形成・長期的な共生可能性・移民や帰化者の要求の拡大』などの将来の負担やリスクに耐え切れない恐れも強いのだが、経済活動と労働力供給の持続性という面に限っては、移民抜きの対応策が次第に難しくなってきている(EU諸国が直面してきた国内問題・労働問題を日本もなぞってきている側面がある)。