高齢化するひきこもりと学校の中退との相関関係:『学校・企業からの脱落者』を放置しやすい現代日本の雇用制度・労働市場の問題点

ひきこもりやニートが増加しやすく高齢化しやすい要因は、先進国全体に概ね共通するものであり、EU諸国では若年失業率が20~30%程度にまで上がって、南欧では約半数の若者が失業して何の職業経験やスキルも積み重ねられないままに中高年になっていっている。

現代日本におけるひきこもりの増加・高齢化の問題をどう捉えるか?:2

現代の先進国では、大学の教育制度が想定してきたような『ホワイトカラー(大手企業の総合職)の雇用のパイ』が大幅に減少しているにも関わらず、とにかく最低限大学だけは卒業しておくべき(無能・劣等ではないことのメルクマール)という親世代の価値観の共有で『大学進学率』だけは上昇を続けている、その一方で中小零細企業の雇用や非正規雇用の待遇は悪化を続けている。

日本の企業制度は学校制度の延長(学校を卒業した人たちが一斉に入社していき年次と経験を重ねる仕組み)として機能してきたが、基本的に『学歴と職歴との連続性+一定以上の職務経歴・実績の評価』とがスムーズにつながらないと、平均所得前後を稼げる働き方(ボーナスや昇給昇格の機会のあるサラリーマンとしての仕事状況)に適応することが困難になっている。

更に、『履歴書・職歴書(時間軸に沿ったキャリアの休みのない連続性)』に象徴される過去から現在までの自己のデータベースが、『自分の働き方・生き方が記録(格付け)され監視されているような強迫観念』を生み出しやすくしている。

そのデータベースに空白・落ち度があるように思い込んでしまう気弱な人たち(今までの人生履歴に対する周囲の目線や評価を気にしすぎる人たち)が、ひきこもりや無職状態から立ち直るきっかけを掴みにくくなっているが、履歴書さえ要らないバイトも多かった気楽な昔の時代と比較すると、『データベースの連続性と正確さの要請(過去に何をしてきたか・どんな経験を積んできたかの透明化)』はかつてないほど強まっている。

ひきこもりになる大きな理由の一つが『学校の中退』であるとされているが、このことは『学校制度の延長(学校を卒業して企業・官庁に○期生として入社するというコースの連続性)』として、昭和以降の大手企業(官庁)の雇用慣習や給与制度が作られてきたことを考えれば当たり前の現象でもあるだろう。

日本の大手企業は成人であっても、○期生や同期生といった学年のような意識を持っている会社・会社員が多く、学校制度の延長や接続としての企業に入社していく人たちは、基本的に学卒の同じ年齢の人たちである。それ以外に入社する経路は『一定以上の高度な実績・スキル・人脈などの有用性のある人材(教育の必要がなくむしろ管理者や技術者としての指導力が期待できる人材)』に限られており、日本のそれなりの処遇の会社では、学校を中退したというだけで入社できるコースそのものが消滅してしまう会社も多い。

大手でなくても、40代以上の新人のおじさん・おばさんが中途から教えてもらう立場で入っていく制度的な仕組みや人事・給与制度上の対応の仕方が存在していないことが多く、40代以上からの再チャレンジだとどうしてもアルバイト的な働き方しか見つけにくく(アルバイトさえも外見的な印象や店舗・商品との相性などから中高年者は採用しないところは多い)、ずっとその働き方・給与に固定されやすい。

学校を中退すると『同世代との同調行動・情報交換』や『就活の集団就職の機会』から外れていくために、自分で求人情報サイトやハローワークの求人を見て応募しても、就活と比較すれば企業の規模や雇用の待遇、将来性において劣る採用しか見つけにくく(生涯にわたってキャリアや実績・技能を積み上げるような仕事は見つけづらく)、どうしても『一時的・バイト的・単純作業的な就職』になりやすい。その結果、今はとりあえずこの仕事をしておいて、正規雇用の長く続けられる仕事は落ち着いてからまた探そうということになり、どこかで少し働いては辞めての繰り返しに陥りやすくなる。

日本の教育制度や就職活動、職業キャリア、親世代の価値観は、『良い学校に行って良い会社(役所)に入る』くらいの考え方しかない『エスカレータ式の学校制度の延長線(いったん正規雇用で大手に採用されれば簡単にはクビにされない長期雇用保証)』にのっとったものであり、学校を卒業すればどこかには就職できるはずという好況期ベースの甘い見通しにたっていた。

そのため、極論すれば日本社会では『学校制度や企業キャリアを中途で脱落した人(脱落はしたがガテン・職人の肉体労働や非学校的なカルチャーにも適応できない人たち)がどのようにすれば良いのか・労働市場の競争原理で採用されるだけの能力や自己アピールがない人はどこで働けば良いのか』の処方箋はあらかじめ備えられてはいないのである。

学校制度や企業適応から脱落して以降の人生のほぼ全てが、自己責任か家族の責任かということになってしまい、『学校を卒業してどこかの会社に就職するというコース以外の働き方のビジョンや努力の方向性、稼ぎ方の選択肢』を持っていなかった本人・親であれば、そのままひきこもりやニート、貧困状態の悪循環にはまり込みやすくなってしまう階層的な社会構造(学歴主義・企業格付けの階層意識)が日本にはあるとも言える。

初めから学校制度から非行・犯罪で逸脱するような不良系の人たちのほうが、返って『生きていくためなら何でもするという生命力・行動力』があることが多く、体力・気合のいるガテン系の現場や工場・作業の労働に適応しやすい面があるが(あるいは窃盗強盗・恐喝・詐欺などの犯罪行為をすることはあってもひきこもり状態にはなりにくい)、中途半端に進学・学歴の階層的な価値観にのっかってしまった人たちのほうが、『勉強したり学歴・資格を得たりして準備してから就職するという価値観』に拘束されることで、逆に仕事の選択基準が激しくなり(準備だけに明け暮れてしまい)ひきこもり的な状況に陥りやすくなる副作用があるかもしれない。

高齢化するひきこもりの人の中には、軽度知的障害や発達障害、精神障害、対人恐怖(対人緊張)などの要因があり、『能力の絶対的な不足(実際に仕事をやってもそれらの障害によって上手くできず学習も進まない)』によって社会にでられず働けないという人もいるだろうが、そういった障害を見過ごされてきた人たちは、障害者雇用の促進制度を利用したり、各障害の特性に応じた職業訓練を受けて面接を斡旋してもらうしかない。

一方で、『学校・学歴・組織・職業・技能の階層的な価値観やキャリアの連続性』という選別的な社会一般の価値観(待遇格差・序列意識・やり甲斐重視)に染まりすぎてしまった結果、『稼ぐためだけの仕事・生きていくためにせざるを得ない仕事・その場で動けばすぐに始められる種類の仕事』のほうに適応するきっかけを失い続けている側面もあるだろう。

例えば、20代の若い時期に『フルタイムのちゃんとした正社員の仕事をしなければ意味がない・いつまでバイトのような仕事を続けるつもりなのだ・他の人はみんなちゃんとした会社に勤めたり公務員になったりしているのに』といった親・周囲の昔ながらの価値観を受けてきた人は、短時間のアルバイトや派遣労働ならこなすことができても、『そんな仕事はやっても意味がないという価値観の刷り込み』によって何もせずにひきこもり状態になっている人もいるかもしれない。

親や社会、周囲が『仕事・職業の序列的な価値判断』を意識的あるいは無意識的に繰り返していることによって、『自分にできる程度の負担の少ない短時間の仕事やアルバイトなんてやったって意味がないし認めてもらえない(年を取ってそういった仕事をしていること自体が何もしないよりも恥ずかしい気がする)』というところから何もしない状態が長期化していったひきこもりやニートも多いのではないか。

『仕事・職業の序列的な価値判断』に拘束されると、きちんとした会社や仕事でフルタイムで仕事をしていないと価値がない、中途半端な仕事をしても今更意味がないという二者択一的な価値観になっていつまでも働けないということになりやすい。だが、完全な経済的自立に至らない仕事であっても、『現時点の自分にもできそうなこと』を1時間でも2時間でもして自力で稼いでみることには意味があるのではないかと思うし、逆に(自営業のアイデア・資本やウェブビジネスの技術がある人などでもない限り)そういったところからしか始められない現実もあるだろう。

家族や周囲もそういった本人にとっての働き方を模索する努力を認めていく姿勢が必要だが、何歳になればこれくらいの給料があって家族がいて当たり前というような世間一般の評価軸とは異なる『自分なりの生きがい・活動の目標』を設定していくような社会一般の平均とされる生き方からの方向転換も求められる。

ひきこもりというのはある意味ではそういった社会一般の平均とされるライフスタイルから外れていることを直視したくない(まだどこかで挽回の余地があるが今はその時期ではないと思い込もう)とする逃避行動ではあるが、どうせ40・50代までひきこもったなら、世間の常識的なライフステージに無理に合わせずに、後はゴーイング・マイウェイの価値判断や雇ってくれる場所でスポット的に働く人生設計で生きるしかないのではないかとも思うが。