肥前佐賀藩(鍋島藩)において、幕末の弘化三年丙午八月十四日に生まれた三人の男。
肥前守・鍋島直正の嫡男である鍋島淳一郎(なべしまじゅんいちろう)
鍋島藩家老の子である松枝慶一郎(まつえだけいいちろう)
二百俵三人扶持御徒衆・石内勘右衛門の子である石内嘉門(いしうちかもん)
同年同月同日に生まれた鍋島藩の三人は、『大名の子・家老の子・軽輩(身分の低い藩士)の子』とそれぞれに境遇が異なるが、封建時代の身分の格差・遺風は三人が成長して明治維新を迎えてからも、どこか宿命的な影を落として消えることがない。
全く同じ日に産まれたという主従関係の因縁によって、松枝慶一郎と石内嘉門は君主となる鍋島淳一郎の近習(お側付きの学友)となり、その中で最も学識の才能を示した頭脳明晰な若者は石内嘉門であった。
三人の先生である藩儒・草場佩川(くさばはいせん)は、学問に熱心で聡明・利発な石内嘉門を初めは評価して、特別に高度な内容の個人授業を施していたのだが、後に『頭脳(あたま)はたしかによいほうです。だが、どことなく、可愛気のない子ですな』と嘉門の人物を気に入らない様子を見せる。そして、この『上の人から好かれない・能力を他人(世の中)に受け容れられない』ということが石内嘉門に時代を超えた呪縛・怨念のようにまとわりついて離れず、次第に嘉門の人間性を腐らせていく。
石内嘉門の人物と才知を最も高く評価していたのは幼馴染の松枝慶一郎であり、松枝は何とかして有能な嘉門を取り立ててやろう推挙してやろうと腐心するのだが、『松枝だけが認める嘉門の人物・能力・才覚』はどうしても他の上の人間には受け入れられず認めてもらえない。同じ日に生まれて長らく側に仕えていたはずの主君・鍋島淳一郎(鍋島直大)からも次第に冷遇されて遠ざけられていく有様である。
松枝は『これほどに抜きん出た秀才たる人物が何者にもなれずに終わるわけがない。実際の才能では私など嘉門にはとても及ばないのになぜ嘉門だけが報われぬのか』との信念を持ち続けるが、嘉門は嘉門で自分の身分・家格の低さに根深い劣等コンプレックスを持っており、自分より学識や才覚で劣っている人間が厚遇されて出世していくのを見て、『やはり、家柄や門地には敵わないのか。軽輩の子はやはり軽輩の子か』という妬み嫉みの感情を募らせ、『俺は自らの力でのし上がっていく』との焦りと気迫を高ぶらせていく。
松枝慶一郎から見る石内嘉門は、多少、孤独を好んで自力(自分の才覚)を頼む不遜さはあるが、それでも人の良いところがあってそんなに皆に嫌われるべき人物とも思えなかったが、とにかく嘉門は鍋島藩では全くその人物と能力を評価されることがなく孤立の度合いを強めていった。
上司からも同僚からも好かれない嘉門は、終に『皆は俺を相手にせんようじゃ。だから俺も皆を相手にせんよ』と語るようになって心を閉ざしていくが、こういった『他者の非承認に対抗する無視・自閉・軽蔑』というのは幕末に限らず現代においても起こり得る『社会不適応(集団不適応)・他者からの疎外をもたらす“いじけ・嫉み”の心理状態』の典型でもある。
石内嘉門は、松枝の従姉妹の許嫁である千恵に思いを寄せて松枝に告白の仲介を頼むのだが、松枝は千恵が幼い頃から決められている自分の許嫁であることを言い出せないままに時間が進み、嘉門の嫉妬と絶望を煽る『藩内の昇進・千恵との結婚の報告』が彼に人づてに伝わってしまう。
唯一、信頼していた親友の松枝からもバカにされて裏切られたと思い込んだ嘉門は、『あれほど信じていた君からでさえ、このような目に会わされた。おれという人間は、よくよく皆から、蹴られるようにできているのだろう。しかし、雑草でも性根はあるぞ。これは覚えていてくれ』と捨て台詞を書いた手紙を送りつけて、任地の長崎から出奔して脱藩してしまった。
学識と才能がある嘉門が周囲に容れられず、常に孤独であることに松枝は同情し、何とか支援して上げたいと思っていたのだが、その自分が嘉門に人間不信・社会への怨嗟を決定的なものとする『最後の一撃』を加えてしまった。後悔と罪悪感に沈む松枝慶一郎は、才能と覇気に恵まれた嘉門であれば、佐賀藩では容れられず不遇であっても、別天地で自分の新たな運命を切り拓いていき世に出るはずだと思い込むことで、自分の心理的負担を和らげた。
そこには、仕事の昇進も愛する許婚もすべて自分の才覚というよりは『生まれながらの家老格の身分・門地』によっておよそ運命のようにして得ただけではないかとの松枝の気後れというか後ろめたさがあり、脱藩にまで追い込まれた石内嘉門の身に連続する不幸・不遇・孤独というものが、彼の言うとおり『軽輩の身分の見下される定め』によってもたらされているのであれば何ともやりきれない気持ちに襲われるのであった。
実際、子供時代の石内嘉門は同年同月同日に産まれた三人のうちで、最も才気煥発で学識・才知に抜きん出ており、藩主の鍋島直大も家老の子の松枝慶一郎(自分)も嘉門の能力には全く及ばなかったのだが、明治二年の今になってみれば鍋島直大は佐賀藩知事の首長職にあり、松枝はそれに次ぐ佐賀藩権大参事の地位にあって更にイギリス留学ができるというチャンスにも恵まれていた。
明治維新を迎えて身分制度が廃止された『四民平等』の世になり、嘉門が望んでいた個人の能力・努力でどんな地位にも就ける時代という建前が成り立ちつつあった。だが依然として旧大名・旧家老の身分にあった者は、低い身分の士族や一般庶民よりも恵まれた社会経済的地位や特権を得ていることは確かで、松枝自身も旧佐賀藩の家老格の家柄の生まれでなければ、とても権大参事という職位を得ることは叶わなかっただろう。
旧藩主で現在の知事の鍋島直大も、個人としての力量であれば嘉門より優れているわけでもなかったが、嘉門は身分差のあるこの幼馴染三人のうちで最も不幸であるというだけでなく、誰と比較しても『人に受け容れられない暗い運命』に呑み込まれているような重たさがあった。
しかし、松枝はまだまだ嘉門の器量に対する淡い期待を捨てきれずにいた、嘉門ほどの男であれば自らの暗い運命を抜け出して、文明開化・四民平等の明治の世で必ず台頭してくるはずだ(いつかは嘉門も自分なりの幸せと栄誉を掴み取るはずだ)という思いは、千恵との結婚の一件で嘉門に塗炭の苦悩・絶望を味あわせた松枝の贖罪じみた気持ちの裏返しでもあった。
松本清張の『啾々吟』は封建時代と近代(身分制廃止の時代)の端境期を題材にとって、全く同じ日に産まれた三人の男の人生の大きな落差を描くことで、『身分・門地の格差』と『能力・才覚の競争』と『人に好かれる人間性(徳)の有無』が生み出す運命的な不条理劇を、現代にも通じるリアルな心理描写のプロセスによって見事に伝えている。
短編としての物語の構成が絶妙であり、『松枝慶一郎の順境・自責』と『石内嘉門の逆境・怨嗟』のコントラストが、その人その人がいつの間にか持ってしまう逃れがたい宿命を象徴しているかのようである。
生まれ落ちた家庭環境・各種の境遇の落差の影響は、現代においてもゼロにまでなることはないが、この種の不条理・不公正に対する不満や怨嗟は『機会の平等の建前』でとりあえずは押さえ込まれつつも、『各種の社会指標・経済指標』が石内嘉門が味わったような格差・冷遇の世代間連鎖のような現象を示唆することも少なくない。