“国家(法権力)”や“経済(市場・金銭)”に依拠する人が増え、“社会(他者)”を信じない人が増えた現代をどう生きるか?

現代では統計的な凶悪犯罪や自動車事故の発生件数が減っても、『体感治安(危険実感)』は高いレベルで推移しており、相対的に安定した仕事をして豊かな暮らしをしている人でさえも『将来不安(今上手くいっていてもどこかで大きな困難に直面するのではないかとの不安)』が尽きること無く高まっているような状況である。

日本列島には約1億3千万人もの日本人が生活しているが、人口が少なかった時代よりも他者との直接的な助け合いや心配・配慮が行われにくくなり、大多数の人は孤独感・疎外感を感じて他者を信じなくなり、家族をはじめとする近親者と国家の提供する福祉制度、企業が与えてくれる給与・保障以外には『頼るべきもの(生きる術+心の支え)』を持ちづらくなっている。

大半の人は、企業からの安定した雇用(キャリア)や給与を失って、国家・行政の提供する社会福祉・公的年金のセーフティネットからこぼれ落ちればアウトであり、プライベートな人的ネットワークやコミュニティの相互扶助によって『国家・経済以外のセーフティネット』を自前で構築しているという人は極めて少ないし、都市部では特異な宗教団体でもない限り、そういったコミュニティを結成することは困難だ。

その意味において、一部の村落共同体のような地域を除いて、日本の都市部において『社会(中間集団の市民社会・互助の連携)』は死に瀕してしまったといえるが、バラバラの個人が自己責任のもとに金銭を稼いで保障を手に入れ、得たモノに対する『排他的な独占』を主張して守りに入るというライフスタイルにとっては、基本的に他者を受け容れる余地が極めて乏しい。

近代社会は、村落単位の農業のような共同的労働ではなく、各個人の学歴・職歴・資格・技能などに応じて個別の所得や処遇が決定される働き方であるため、同じような場で働いているからといって農業のような『共同的労働の連帯感・仲間意識』といったものは生じにくく、(自分の力で勝ち取ったと感じる)報酬に対する独占意識は極めて強い。

また目に見えるところでお隣さんに手伝ってもらうような共同的労働ではなく、企業・官庁のような組織の部分として働く労働であるため、『他者と共にお互い様で働いているという感覚』は芽生えにくく、同僚とはいってもそこまでの共同体感覚は生まれない。基本はその職場で働いている限りの付き合いであり、仕事の配分や負担感にしても損得勘定に振り回され(相手の仕事が遅くて自分に少し回ってきただけでも嫌だと感じ)、その人の抱えている個人的な悩みや経済問題などを、深いレベルで自分に相談されて支援を頼まれても迷惑だと感じるだろう。

豊作で農作物が余れば隣人に米や野菜をお互いに分け与えることの心理的ハードルは極めて低いし、むしろ美味しいものが沢山できたらもらって欲しいとさえ思うものだが、近代的な労働で給与所得を得ている人が隣人に所得を分け与えるということはまず考えにくい。『生産物』以上に『現金』というのは私的感情による再分配の取り扱いが難しく、そこに働く執着心・嫉妬・貸し借りの力が強すぎるので、いったん税金・保険料などの形で公権力が強制徴収して再配分するしかないということになる。

性悪説的な『他者の悪意・犯罪・裏切り・騙し』などを過剰に警戒するようなセキュリティ意識や他者の不審な行動を監視しておかないと不安だという人が増え、そういった『自分とは異なる異質な他者への敵意・排除・警戒』はグローバリゼーションへの反対や国家安全保障における仮想敵国の設定といった問題にまで拡大する。自分以外の他者(特に価値観・判断基準の異なる他者)、外国人、新たな変化などは、概ね自分や家族の利益を掠め取ろうとする『悪しきもの』として認識されやすくなり、その悪しきものを理解しようとする動機づけは生まれず、実力行使で排除してしまおうとする。

凶悪事件は減少しても厳罰化(死刑)の要求は留まるところがないし、少しでも自分の信じる価値観や生き方、政治信条と合わない相手を見れば『あいつはバカ・ダメな奴(自分以外はみんなバカ)』と切り捨てることで自己補強する人も増えている。

こういった排他的・懲罰的と見える行動や欲求の根底にあるのは『社会共同体(幅広い他者との情緒的・人間的なつながりの感覚)の消滅』であり、個人的に親しい交流・縁のある相手以外の赤の他人は自分たちに迷惑を掛けなければどうでもいい(特に自分自身さえどうなるか分からないのに赤の他人や外国人などはどうでもいい)という発想だが、こういったスモールワールドの利害だけに閉じこもる発想は現代では誰もが多かれすくなれ持つ普遍的なものとなってもいる。赤の他人からわずかな不利益や迷惑、不快を与えられることを絶対に許さない(自分のスモールワールドや内面世界の幸せ・正当性を保守する)との防御姿勢である。

それぞれの個人が『社会(共同体・連帯感)』によってつながることはもはや無理だ(そこまで親しくもない好きでもない幅広い他人とのコミットメントをもう誰も求めていない)との判断が先にあり、『国家(公権力)』によって重い刑罰で脅したりカメラで監視したりして、よく知らない他人(何を考えているか分からない基本的にはバカ・強欲が多いと認識する信頼できない他人)の悪意・攻撃を制御しようと考えるようになっていく流れは、日本に先行した欧米社会の近代化・成熟化でも同じように起こった。

アメリカのアソシエーション(結社)やカントリー(故郷・宗教を共有する仲間)の理念も、ヨーロッパのソサイエティ(社交)の理念も、現代では概ね国家・市場経済に基づく自己責任原理の影響力の前に風前の灯火である。

更に、『経済(市場原理・競争)』によってその人が受け取るべき利益の配分が公正に決められているのだから、市場や雇用から十分な利益(収入・保障)を得られない人は無能か怠惰か自業自得かであり、そういった人を個人が助ける必要はない(困窮者でなくてもみんな経済活動ではつらい思いをして稼いでいるのだから)という自己責任原理が貫徹されることによって、『国家(公権力)・経済(市場原理)』との中間にあって一般の人々の精神的ケアや非市場的な相互扶助を司っていた『社会(市民社会・同志感覚)』はほぼ壊滅状態に陥ったとも言える。

『社会(市民社会・同志感覚)』の壊滅は、都市化・匿名化する現代において大して親しくもなく好きでもない相手のために何らかの負担・面倒を掛けられるのは嫌だという暗黙の合意に基づいて、経済社会の発展と人々の希望に沿う形で進行したが、そうなると必然的に、他者と深くコミットしなくても観念・個人・技能のレベルでどうにかなる『国家(法律と公権力・刑罰など強制力)』と『市場(自分の経済活動とその対価・保障)』しか信頼できるものがなくなっていく。

義務教育以外には、悪しき行為をする反社会的な他者を矯正して教育することは不可能だと考える人も増え、『悪事をしてはいけないと思う倫理観(内面)のある人』を増やす教育コストをかけても効果がない(悪事をする奴は成育環境の影響もあるが矯正困難なバカ・異常者・異端者であり教育したも無駄だ)と思い始めた。結果、『監視と厳罰を恐れる動物的な人(倫理観を持ちようがないバカでも分かる犯罪に対応する不自由・恐怖・苦痛の強化)』を前提として、悪事をすればこれだけ厳しい処罰を受けあるいは殺されるという恐怖感によって社会を防衛しようとする極論に走りやすくなった。

古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの政治哲学の目的は、『良い社会』を建設するために『徳・分別のある人間』を教育して増やすことを基盤にしていたが、(奴隷階級の問題は別にあるが)それはポリスを構成する自由市民は概ね自分と同じように話せば伝わる同志(徳・分別・理性を持ち得る可能性を有する者)であると前提されていたからだった。

しかし、現代では『良い社会』のイメージについてのコンセンサスを作り上げることは困難で、実際の他人が持つ知性・理性・共感感情(人間性)・環境要因の内容について考えること自体が無駄に感じられやすく、『良い国家・豊かな経済のビジョン』はあっても実際の他者と向き合って仕事(雇用)以外の場面で連携したり活動したりする『良い社会のビジョン』がそもそも存在しないのである。

『国家(法律・権力)』と『経済(市場・競争)』の二つの中心的な領域によって審判を受けてそれに適応すれば良いという社会観の短絡化によって、『法律に違反する個人・市場経済(雇用)に適応しない個人・他人に迷惑や不快を与える個人』はそれだけで機械的に『何を言っても無駄なバカ・生産性と意欲のないダメな人・適応的な常識人とは異質で迷惑な存在』として処罰されたり放置されたり排除されたりする。

そこには『市民社会・良い社会』を自分もコミットして作るという面倒や手間を回避したい(遵法と仕事と私生活だけで人生・人間関係を快適に回したい、それだけで精一杯で疲れ過ぎている)という近代的なシステムへの適応と疲労感が強く働いている。

『処罰・監視・他者不信と貧困・悲惨・過労』といったネガティブな条件づけによって日常生活に追われている人が増えているとしたら、現代社会で生きることのストレスや不遇感、空虚感(無意味感)がわだかまる一因ではあるのだが、現代はかつてのように『地縁血縁と結びついた所与の人間関係(入れ替わらない人間関係)』ではなく『自分の好き嫌いと結びついた人間関係(好意や興味、メリットのない相手とは付き合わない等)』を志向するため、単純に他者との信頼関係や相互扶助を取り戻せば良いという問題に還元できない。

歴史上の大部分において、人間は国家や経済(市場)だけに依拠して生き抜いてきたわけではなく、そこに絶えず社会(同胞感覚でつながり互助できる中間集団)が関与することで、国家や経済(市場)からの圧力を緩和して精神的ケアもしていたのだが。

市民社会・同胞的集団という中間集団における『生活世界』を失って、個人が直接的に国家(公権力)・経済(市場)という『システム』に結び付けられたことで、他人を信じられない・頼れないという現代特有の孤立感・不安感の問題が強化されたというのは、フランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスの近代に対する世界認識だが、本来、人間は国家や経済がダメになっても生活世界における人的な助け合いや居場所の確保(自分を認めてくれる人・場との調和)で生きられる存在でもあった。

しかし、国家や経済という非人称的な『システム』への適応が個人単位で上手くいっていればそれが最もストレス・煩わしさのない快適で豊かなライフスタイルとなることから、この近代が成熟した時代における現代的(近代後期的)な問題を解消することは容易なことではないだろう。