映画『ポンペイ』の感想

総合評価 82点/100点

古代ローマ帝国の最盛期、『永遠の都』と称されたローマの南東約250キロにあるポンペイは、紀元79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火と大地震によって都市が火砕流と火砕サージ(高温の火山灰・火山性ガス)に呑み込まれて壊滅した。

ヴェスヴィオ火山の噴火の後にも、大量の火山灰・岩石・土砂が数日間にわたって降り続き、ポンペイは地中深くに埋もれてしまい、皇帝ティトゥスの使者が目にしたのは火炎が燻るだけの灰色の荒野だったという。首都ローマも3日間に及ぶポンペイからの延焼被害に襲われたとされる。火山噴火で死亡したポンペイの被害者たちの姿は『遺跡に残された人型の空洞(鋳型)』を元に石膏像で復元されており、映画のプロローグにも灰色に炭化した焼死体の像(静態的な像でグロテスクなものではない)が使われている。

ポンペイに住んでいたとされる約2万人の人々のうちの約1割がこの大噴火で死亡したとされるが、映画『ポンペイ』のヴェスヴィオ火山噴火の映像表現は、ポンペイ市民の死因が『窒息死』だけではなく火砕サージによる『焼死』が多かったという新しい研究の知見を応用して、都市炎上の激しさを表現している。

ポンペイ全体が段階的に火災サージで呑み込まれて燃え上がる中、大きな岩石が無数に雨のように降り注ぎ、火山灰も大量に降り積もってポンペイが地中に埋もれていく。

人為を超える自然災害の猛威の前では、『ローマ帝国の強制的な権力・貴族的な権威』の象徴である元老院議員も無力であるしかなく、悪徳・残忍・搾取を尽くしてきた元老院議員のコルヴィスも、ヴェスヴィオ火山のあらゆるものを根絶やしにするかのような爆裂と炎上の破壊力によってその生命を瞬時に絶たれる。

この映画では、ローマ帝国は異民族を暴力によって殺戮・支配される『悪の帝国』として概ね描かれている。自由な市民に娯楽を与えて統治するための『パンとサーカス』である『コロッセオ(闘技場)』における剣闘士(奴隷)の死闘も、戦いに勝ち続ければ自由になれるという空手形を握らせた残酷なショーである。

主人公のケルト人であるマイロ(キット・ハリントン)は、将軍時代のコルヴィス(キーファー・サザーランド)が皆殺しの手法で鎮圧した『ケルト(遊牧民)反乱』の最後の生き残りで、ローマ帝国に対する憎悪と復讐心を持ち続けている。

マイロは決してローマや元老院のいうことを信じないが、マイロと友情を深めてゆく最強のグラディエーター(剣闘士)であるアティカス(アドウェール・アキノエ=アグバエ)は『ローマの法の支配』を信じており、コロッセオで後一勝すれば自由な市民になれると信じている。

だが、アティカスの『ローマ法への信頼(理不尽な奴隷の酷使をしても法治主義であるローマは、法を守って自分を解放してくれるはずという素朴な思い)』は、コロッセオへの『完全武装した大量のローマ兵団の投入(マイロとアティカスに対する間接的な公開処刑の構え)』によってあっさりと裏切られる。

鍛え抜いた肉体で戦い合うアクション映画としての佳境は、コロッセオ(闘技場)でマイロとアティカスがローマの重武装した軍隊を振り回して個別に撃破していくところにあるが、ローマの将軍・元老院議員のほうも必ずしも虚弱な存在としては描かれていない。

元将軍として軍隊を率いていた憎たらしい元老院議員コルヴィスも、剣を抜いて戦えば最強のグラディエーターであるマイロと互角に近い強さを発揮し、コルヴィスの懐刀として働いている自信満々な将軍も、剛力のアティカスに致命傷を与えるほどの剣術の技量を持っている。ローマ帝国全盛期のローマ軍人が、勇気がなくてひ弱(属州・植民地から搾取した財物でただ贅沢な生活に溺れているだけ)というのもおかしいので、実戦経験のある軍人がグラディエーターと対等の力量を持つという設定はそれなりに妥当ではあるが。

映画のストーリーの中心は、奴隷のグラディエーターであるマイロとポンペイの富裕な商人セヴェルスの娘・カッシア(エミリー・ブラウニング)の身分不相応な恋愛、カッシアに一方的に惚れている元老院議員コルヴィスの強引な婚約(娘の意向を重視する父セヴェルスの殺害)とカッシアと愛し合うマイロへの嫉妬、マイロとアティカスのローマ軍との戦いにある。

キーファー・サザーランドの不遜で強欲・残酷なコルヴィス役ははまり役で存在感もあるが、マイロとアティカスが助け合って戦闘に打ち勝ち噴火から逃れようとする場面、コルヴィスの馬車から奪還したカッシアと共に火砕サージから逃げようとするマイロの懸命さの描写・演技もなかなか良かった。

クライマックスは、『愛情・友情・憎悪・敵意・差別・支配(隷属)』といったあらゆる人為や感情をヴェスヴィオ火山の火炎・火山灰が呑み込んでいくのだが、ローマ帝国時代の身分差別や残酷な娯楽を孕んだ人間ドラマを入念に感動的に再現しながら、最後は『自然の破壊的な猛威』の前にすべてが無に帰す(帝国も人為も自然・時間の前には無力)という終わり方をするのはやや虚無的なエンディングかもしれない。