映画『共喰い』の感想(ネット・レンタル)

総合評価 75点/100点

2011年に芥川賞を受賞した田中慎弥の『共喰い』は、石原慎太郎に挑発的な発言を行ったことでも話題になったが、映画の全体の作風としては『ある種の家庭・男女における昭和的な暗さ』と『性愛・血縁の暴力性の暗さ』を重ね合わせたような印象が強い。

暴力と快楽が交錯する隠微なエロティシズムや背徳的な叙情文学と評することもできるが、『暴力的・犯罪的な性癖の父子間の遺伝』のようなものを匂わせて、血縁の業とその乗り越えを強調するような物語の展開は、個人的には心理的に閉塞する重厚感はあったが、それを映画で敢えて味わい続ける意義はそれほど大きくないようにも感じる。

ドーンというような低音の効果音も思わせぶりではあるが、遠馬の暗い欲望の滾りや後ろめたい気持ちを象徴している音で、端的には『親父と同じような悪しき人間にはなりたくない』がそこに引き寄せられてしまうというテーマを強調している。

昭和63年から昭和64年となり、昭和天皇崩御で元号が平成に改まるまでの時代設定だが、『父親が殴っていた女(若い愛人の後妻)』から許されて交わり、女のまともな愛し方を知るといったエンディングは、『暗く重たい過去からの遠ざかり・超越』を日本的な時間の区切りである元号の切り替えに表象させたものである。

主役の遠馬を演じている菅田将暉(すだまさき)は、米倉涼子が主演でスクールカーストをテーマにしていたテレビドラマ『35歳の女子高生』の軽薄ないじめっ子役(クラスの空気を操作するボス的な役)で初めて知ったが、少し前に見た『そこのみにて光輝く』でも、能天気で貧しい無職の青年を演じていて、なかなか個性的で存在感のある演技(明るいあっけらかんなキャラから暗く重たいどんよりしたキャラまで)をする俳優だと思う。

遠馬の父親の円(まどか・光石研)は、女を殴らないと興奮しない色欲過剰なろくでなしのサディストであり、遠馬の母親の仁子(田中裕子)も散々に殴られた果てに離婚していた。最近、一緒に暮らし始めた若い愛人の琴子(篠原友希子)も円から性交の度に殴られたり首を絞められたりしているが、母と愛人を殴る父親を見て育った17歳の遠馬は、『円の血筋の呪縛』によって『自分も女を殴って喜ぶクズな男』になるのではないかという自己否定の恐怖心を抱えていた。

戦争で片腕を失って特製義手で魚屋を営んでいる仁子は、息子の遠馬に対して、『初めて殴られた時は殺そうと思った。なんで殺せんやったんか』『円は自分の血を残そういう執着心が強いけ、妊娠した時だけは殴らん』『あいつの血を継ぐのはお前だけで十分やけ、二人目は引っ掻きだしてやった』『あいつみたいな目をしとうね(殴ったんやなかろうね)』などと語りかけ、元夫の円に対する怨恨・呪詛とその血の汚れを、遠馬に洗脳するかのようにブツブツと呟いている。

中絶体験を告白して、ろくでもない父・円の血統など絶やしたほうがいいと訴える仁子によって、遠馬は円の血を継ぐ自分自身が間接的に否定されているような居心地の悪さを感じ、『血・遺伝の影響の自己洗脳』に捕われていくようなところがある。

思春期の高ぶる性欲を持て余す遠馬は、神社の物置で彼女の千種(木下美咲)と性交をしていたが、ある日、父親のように千種の首に手を掛けて軽く締めてしまい、逃げ出した千種からほぼ絶縁状況に置かれてしまう。

あらゆる悪しき影響の源泉として父親が描かれているが、恐らくこういった父子関係と血縁の呪い・怨念の克服というのは、原作者の田中慎弥が抱えている心象や元型的イメージの現れなのかと思う。『性愛と暴力と社会不適合との交錯』を血縁関係に絡めていく重たさがあり、その重圧からの解放、血・過去に拘束されない自己(自制)というものがテーマになっている。