映画『春を背負って』の感想

総合評価 81点/100点

幼い頃から厳しい山屋の父親・長嶺勇夫(小林薫)に連れられて、立山連峰の冬山に登り『菫小屋』の山開きを手伝っていた長嶺亨(松山ケンイチ)だったが、成長して村・山を離れた亨は東京で証券マンとして仕事をするようになっていた。金融業界でトレーダーとしての才覚を発揮した亨だったが、キャリアに関わる大きな案件を抱えている時に、突然、父が遭難者を救助しようとして山で死んだという訃報が届けられた。

久しぶりに帰郷して父の葬儀に参列した亨は、自分とは全く違う地元に根付く生き方を選んでいる幼馴染の中川聡史(新井浩文)と再会する。既に結婚して子供を設けた中川は、父の後を継いで木工職人として地道な修行を続けており、『決まった人生・職業・家族の道』を黙々と進んでいく亨とは正反対の生き方をしていた。

亨は見たことのない若い女性・高澤愛(蒼井優)とも知り合う。高澤愛は人生に傷つき山を彷徨って遭難している所を、父の勇夫に助けられてから、母の長嶺菫(檀ふみ)が営業する旅館の手伝いをして働くようになっていた。愛は父が存命の時には何度も菫小屋にまで登って働いたこともあり、旅館・小屋の看板娘のような存在にいつしかなっていた。

父・勇夫が長年かかって一人で作り上げ、経営・維持してきた菫小屋は妻の名前を取って名前をつけた愛着のある小屋だったが、勇夫が死んでしまったことで後継もいない状態になってしまった。小屋を閉鎖するか知り合いに経営を委託するかという話になっていて、亨がそれとなく小屋を継ぎたいような話をすると、母親の菫は小屋の経営は甘くないからとやや迷った感じの返事を返してきた。

しかし、都会のオフィスで数字を操作したり市場を分析したりする仕事に限界を感じ始めていた亨は、『小屋を必要としてくれる多くの人たちの思い・過去に父親と何度も登った山での記憶』もあり、会社を辞めて菫小屋を継ぐことを決断する。

数十キロの重い荷物を苦労しながら歩荷(ぼっか)で上げている時に、亨の横からひょいひょいと荷物を担ぎ上げてくるゴロさんこと多田悟郎(豊川悦司)も、『人生を達観したこだわりのない登山家・自由人』といった風情でなかなか飄々とした味わいのある人物である。

父親の旧知であるゴロさんは、ヒマラヤ登山に挑戦したこともあるベテランの登山家だが、亨を小屋の経営者として一人前に鍛えるために父親代わりを買ってでて、時折『山・自然と人生を掛け合わせるような格言めいた台詞』を呟いてくれる。

亨の鍛錬は亡くなった勇夫の遺志を汲んでのものでもあったが、何者にも捕らわれずに超然と山を歩き続け、世界を気ままに放浪してきたゴロさんもまた、『自由であるが故の孤独・虚無』を自分の責任(誰の世話にもならない・最期は静かに消える)として覚悟しているところがある。

『年を重ねるごとに背負うものが増えてくる人生』を語るゴロさんは、世界を巡る自由気ままな放浪生活によって、多くの人が背負ってきたものを自分は背負ってこなかったこと、そのツケが回ってくることを匂わせる。一方、『春を背負って』というタイトルが示唆するように、『季節のめぐり・時間の経過』という万人に平等なものを、誰もが知らず知らずに背負っていっているという根本的な人間存在の等しさ・許し(救い)がほのめかされているのである。

天真爛漫で仕事熱心で思いやりのある高澤愛は、アルプスの少女的な過剰な人物設定になっている感じもあるが、『春を背負って』は、基本的に昭和レトロな映像・人物の雰囲気があり、オーソドックスな『家族と自然の融和の物語』を前面に押し出した作品である。最新の今風の映画とは対極的な映像世界と物語であり、古くて温かい人間関係や自然との付き合い方のようなものが伝わってくる場面に満ちている。

最終的には、菫小屋でお互いを知って共に働くようになった長嶺亨と高澤愛が結びつくという展開に流れていくが、自分勝手に生きてきたツケで誰とも深く結び付けないと覚悟するゴロさんを、亨が『血縁・婚姻に縛られない家族』として全的に承認しその命を本人の申し出を無視して強引に救うことで、自然の包容感と人間の寛容とが強調されている。

春夏秋冬の山の自然の景観とその移り変わりを、山小屋を起点に映し出している立山連峰の映像の撮り方もなかなか良かった。山岳映画の見せ場である『遭難と救助』も、自信満々で忠告を聞かない無謀な登山者が、気象遭難に陥るという定型的な遭難事件ではあるがきちんと物語に挿入されている。