岡山県倉敷市で11歳の小学校5年生が車で連れ去られて行方不明となっていた事件は、近所の住民が『偽装ナンバーの付け替え』をする不審な容疑者の様子を見ていて、偽装ナンバーの下にある登録ナンバーを記憶していたことで無事に解決に至った。
女子生徒が怪我もなく無事に帰宅できた事は本当に良かったが、容疑者の供述から伺われる『幼稚で自己中心的な支配欲・中年男が小学生を自分の妻だという小児性愛(あからさまな嘘をつき、幼い子供としか関係の釣り合いが取れない精神発達の停滞)』の不気味さには震撼させられた。
逮捕された藤原武容疑者(49)は、去年に自宅の一区画を監禁用に改装して『窓がまったくない防音仕様+外側からしか鍵が開けられない人を閉じ込められる部屋』を作っており、数ヶ月前からこの被害児童を逮捕監禁の対象として目をつけ、ストーカーのように自宅周辺を張り込んでいたという。
しかし、何回も女子生徒の自宅周辺をシルバーの車でうろついたり、長い時間にわたって停車していたりしたため、女児の母親および近隣住民から『不審人物・不審車両』として目をつけられていた。そのことが、今回の容疑者特定と逮捕・被害児童の保護につながったのだが、仮にゆきずりの一回限りの犯行であれば容疑者・車の特定は相当に困難だった恐れがある。
この事件の特異性は、半年以上も前から『女子児童の長期監禁計画』に具体的に着手していたことであり、女子児童を自分好みの女性に洗脳して育て上げていくという不気味な妄想・構想だけであれば、実際の犯行計画よりも相当に前から考えられていた可能性があることである。
50歳になろうとする容疑者が『心身共に未熟で自己決定できない女子児童を恋愛や結婚の対象にしていたこと』も常識から外れ過ぎているが、密室に閉じ込めて10年以上も長期監禁するという事件は、2000年に発覚した『新潟少女監禁事件(10年以上の監禁)』を思い起こさせる。
しかし、アメリカをはじめ海外の事例では女性の長期監禁事件(欧米では地下室・離れ・廃屋などでの監禁が年間に複数件発覚する)はかなり多いので、『男性心理の発達プロセス及び欲求の志向性の異常』によって、起こる可能性がある事件の類型として認識しておいたほうが良いのかもしれない。
藤原武容疑者の現状は無職の一人暮らし(実家の一軒家)だが、親から譲り受けた財産でもあるのか(父は死亡・母は介護施設入所)、車を持ち家の改装をするなど生活そのものが極端に困窮していたという様子は伺えない。
誘拐した女児を少なくとも18歳までは監禁する計画を立てていたと供述していることから、それだけの長期間にわたって自分が外に働きに出なくても、二人で生活するだけの貯金・資産などの当てが恐らくあったのだろう。
藤原容疑者には結婚・離婚歴があるという報道もあったが、現在は家族は誰も実家におらず誰からも干渉されずに自宅を専有・使用・改装出来る立場にあった。そういった環境要因も、こういった人に気づかれてはならない犯罪に着手する心理に影響を与えたのかもしれない。
成人した子供がいてもおかしくない50代に近い容疑者が11歳の女児を、『恋愛・結婚の対象』として執着するというのは異常だが、『ペドフィリア(小児性愛)』の心理特性は概ね2つに集約される。
1.『劣等コンプレックス・コミュニケーション能力(人生経験)の低さ』から、自分と同等以上の精神年齢や言語能力(知識・経験・社会性)を持つ女性と向き合うことが難しい。精神発達の停滞と興味関心の幼さから、『成熟した女性(20代の若い女性であっても)』への恐怖感や嫌悪感が強く、一緒にいても安らぎや楽しみを感じることがない。
2.自分にふさわしい女性の特徴として『純粋性・唯一性・従順性(素直さ)』を上げるが、それは社会経験・男性経験や知識・言語能力が殆どないような『極端に幼い女性』の特徴として認識される。
一般の成人女性を『社会・異性との関わり(世間知・処世術の蓄積)によって汚れている』と感じ、『自分の思い通りになりそうな女性(自分を評価・査定する基準となるような実社会や異性の経験を全く積んでいない未熟な子供)』にしかアプローチできない。
『自分を評価できる自我・立場・社会性』を持った相手からは逃げる傾向があるが、ペドフィリアとは突き詰めれば人間を所有物のようにモノ化(道具化)することによって、『自我の幼児的全能感+他者の所有と統御の欲求+理想の女性モデルによるコンプレックス解消』を幼児退行的に満たそうとする衝動の性癖化として考えることができる。
精神状態が成熟しておらず、自分と同等な相手とやり取りしたり好意を深め合う社会性やコミュニケーション能力が身につけられていないので、『自分とふさわしい相手』をみつけようとすれば、どうしても実年齢から極端に離れた年下というか殆ど子供のような年齢の相手になってしまうわけである。
自分の魅力や関係持続の能力に自信がないため、反論や拒絶、抵抗、不従順を異常に恐れる心理の現れと見ることもできるし、『反抗できないための力(暴力・脅迫・洗脳)』の担保ができる相手でないと安心して関われない。ペドフィリアやサディズム(嗜虐性向)などの異常性愛の特徴は『異性のモノ化・道具化』にあり、自由意思や自分の意見がない相手を、意図的かつ強制的に作り上げようとする異常な欲求に取り憑かれることも多い。
『異性の自由意思(反論・抵抗の意思表示の兆し=未熟で不安定な自己価値を否定するような言動)』を恐怖するが故に、外部と遮断して完全に洗脳しようとしたり、自分のためなら何でもするという隷属の証明を求めたりして、『自分と相手の二人だけの仮想・妄想空間』だけで人生を覆いつくそうとする。二人以外の外部の社会や他者、情報の影響が及んでくることを徹底して排除しようとする。
これは『自分以外の相手』や『自分と一緒にいる場所以外の場所』を知ってしまうと、自分よりももっと魅力的な相手に気づいたり、自分と一緒にいるよりももっと楽しくて面白い場所があることを知ってしまうのではないかという『退行的な母子分離不安』に起源があるとも言われる。
藤原武容疑者は、11歳の女児に刃物を突きつけて脅して車に乗せ、自宅に誘拐して数日間にわたって監禁する凶悪事件を起こしており、この犯罪とその動機・欲望は異常かつ不気味なものであると言わざるを得ない。
一方で、この容疑者のような『女性に対する支配欲・独占欲・モノ化』は時代や文化、民族によっては合法的に認められていた部分もあり、『男性の女性に対する欲求』の中には、女性の自由意思を抑圧して女性を自分の所有物のように扱いたい(外部の社会・他の男・他人からできるだけ遮断して自分の考え方の影響下におきたい)とでもいうような所有欲や独占欲、性別役割規範があることにも留意する必要がある。
イスラーム圏では、女性にブルカのような衣装で顔・肌を隠させ、自宅の奥の部屋から余り表に出てこないようにさせて、他の男の目から自分の妻を隠して独占したい(浮気を防いだり浮気をすれば死刑に近い重罰を科すなど)というような文化が現在でもある。
夫・家に所有される女性(妻・母)という以外の自己アイデンティティを持ったり、自由に恋愛の相手を選んだりすることが困難な地域(困難というよりは殺されかねない地域)は少なくない。
近代以前の中国には、『纏足(てんそく)』という足の骨を折ってできるだけ足を小さくしたほうが美人だという慣習があったが、これも美人というよりは女性が自分の足で自由に動ける範囲を狭くして、夫の家の中に女性を囲い込んで所有するということに本質があったとされる。
日本にも既婚者の歯を黒く染めさせて、婚姻の指標にしたり性的魅力をスポイルする『お歯黒』の風習があったりもしたが、不義密通・姦淫の罪の多くは男性よりも女性に責任・落ち度があるものとして処罰・糾弾されてきた。
インドやパキスタンなどでは、プロポーズ(求婚)を断ったり、一族間で決められた相手以外の男性を好きになったりした女性を、『男性及び一族の名誉・自尊を傷つけた』として殺害したり顔に硫酸を浴びせたりするアシドアタックの蛮習があるが、男権社会である現地のコミュニティにおいては殆ど反省・抑制がなされず、法律による懲罰も旧習を前にして後手に回りがちである。
現在でも経済的理由を主に考慮した結婚は珍しいものではないが、男性と女性の親密な関係性が『対等な自由意思とコミュニケーションに基づく愛情・興味関心の結果』として育まれてきた歴史は実は異常なほど短く、男女関係の背後に『有形無形の強制・威圧』があった時代も長いとは言える。
現在でも、男尊女卑ならぬ女尊男卑の逆転が起こっているとか、女性の権利・社会進出が進むと既存社会のシステムが麻痺するとかいった男権社会の復古的論調によって、『女性の自由意思を抑えたい男性の欲求』は潜在的に鬱積している。
それは、『飯・風呂・寝るの指示と受容』の性別役割規範のようなものに典型的だが、簡単にいえば『女性がもっと素直・従順になって男性を立ててくれば物事は上手くいく』というような旧時代的なアナクロの社会秩序の図式を懐かしむようなもので、『性格が強くて反論・拒絶もできる自立的な女=自由意思で男を選べる女』に対して劣等コンプレックスや気後れを感じる男が多いということでもあるのだろう。
『男性の所有(独占)・保護(責任)+女性の愛情・献身(世話焼き)』という取り決め婚や現実的な事情、性別役割規範の内面化によって、今までの歴史における男女関係や婚姻のかなりの割合は成り立ってきた面もある。
岡山県女児監禁事件に話を戻すと、藤原武容疑者のような人物は『精神発達の停滞(自分を全面肯定してくれるような早期母子関係への固着)・自己中心的な男女関係のイメージ・女性に対する所有と支配の欲求』を持ちながらも、それを自分にふさわしい年代の相手に向けて自分をアピールして努力するのではなく、殆ど抵抗や反論ができないと予測される子供(女児)に向けて暴力(脅し)で実現しようとしたところに凶悪性や異質性がある。
こういった子供の誘拐監禁事件では、『自分がどのような人間であってもとにかく従順に尽くして愛してくれ』とでもいうような身勝手さや他者のモノ化(道具化)があるが、実際の現実社会における男女関係では『自分がどのような人間であっても(何も魅力や能力がなくても)』などという都合の良いアピールはできるはずもない。
まずは自分と相手の年齢・成熟・興味関心の釣り合いを考え、自分の魅力、能力、楽しさ、責任感などを認めてもらってでなければ男女関係はスタートしようがない。
そういったスタートの前段階の努力やコミュニケーションを一切放棄しながら、『自分の理想の異性像』だけを追求して暴力・犯罪を用いてでも実現してしまおうという幼稚さや自己中心性が際立つ。
ペドフィリアにせよ性犯罪にせよDVにせよ『自分の魅力を認めてもらってから親密になるのではなく力づくで相手をどうにかしよう・自分の価値や魅力を判断できないほどに未熟で社会経験のない子供を相手にしよう』というプロセスの無視や異性選択の基準のおかしさ(どんなに若い相手が好きでも、自分が50代なら若くても成人している相手を選ぶなど常識感覚の欠如)が、犯罪者のパーソナリティの根底にはあるということになるだろう。