現代の先進国における“少子化のトレンド・子供を持ちたい願望の個人差”について。

女性であれば結婚式に憧れて、自分の子供を妊娠して産むことを求めるという近現代のステレオタイプは、20世紀まではほぼ『人間の動物としての本能』として解釈され、父性愛はともかく母性愛は『地母神・太母の古代信仰』より連綿と続く普遍的な女性ならではの他を労わり包容するメンタリティと考えられてきた。

母性とはセックスなのかジェンダーなのか、人間が社会的動物であり文化的規範を設ける種であり、社会的な同調圧力(異端視されること)に弱い存在である以上、セックス(先天性)とジェンダー(後天性)の境界線を明確に引くことはできない。

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人間はセックス(生物学的性差)の必然によって結婚して出産してきたという歴史は持っていない、近代初期までは結婚も出産も義務であったし、それ以前の時代には非農家の庶民階級は非婚・無子の割合も高くて(農業経済では労働力確保のための多産傾向はあったにせよ)、国家の人口規模は今よりも格段に小さかった。

結婚・出産が相手が好きな人であるか否かということも余り関係していなかったライフイベント(共同体的な通過儀礼・集団規模の維持)であった『取り決め婚・身分別の婚姻(親と一族の意向と双方の家柄の均衡発展を反映した婚姻・出産)』の歴史は長い。

一方、現代の結婚や出産は、付き合う異性のストライクゾーンが広くて人生に対して大雑把な考えの人でも、『それなりの個人の好き嫌い・前提条件・将来予測・人生の理想像』が反映された結果として行われるものになっており、『親・社会・他者から強制される結婚・出産』をしている人はかなり希になっている。

結婚していなければ恥ずかしいとか、みんなが子供を持ち始めたから自分も欲しくなったという『社会的圧力による間接的な強制』は現代でもあるが、それは無理矢理にさせているというよりは個人が周囲に合わせて無難な人生を送りたいからという選好ではある。

生存淘汰圧が低下して知識・情報・モノが爆発的に増え、未来を予見し得るようになった日米欧の先進国で、『子供を欲しくないという女性(本能的な母性を反証する自由意思を示す女性)』が増えたことは偶然ではなく、社会経済的・文化的・法律的な有形無形の『結婚・出産の義務化の圧力』が現代の先進国ではかなり弱くなっていることが関係する。

人によっては親世代でも子供を持つか持たないかは、本人の自由・責任で決めるべき(孫を見たいという圧力を子供にかけず、自分と子の人生を別物と考える)という個人主義的な考え方の中高年が増えている影響もある。

かつては親が会う度にうるさいから、周囲からいつも結婚・子供について聞かれるからという理由で、そういった会話や圧力を回避するために子供を持つ選択をする人も多かったというか、社会全体がそういった価値観・生き方を勧めるのだから(そうしなければ異常・欠陥・不適合・仲間はずれをほのめかされるのだから)、それに反する生き方は単純に苦痛で障害が多すぎたのである。

すべてを本人(個人単位)の自由意思や自己決定に任せてしまうと、かつての母性本能論が予測していた『特別な教育・圧力がなくても、人間も子孫を残す動物だから自然に結婚・生殖をするようになるはず』という結果は導けなくなる、これが先進国が経験している現実ではある。

子孫を残すことを本能レベルで考えるというのは、『避妊方法がない・貞操観念が緩く性交の相手を吟味しない・夫婦単位(2人や1人)で育児をせず大家族や村で育てる・祭祀や夜這いといった夫婦関係を限定しない風習がある』といった前近代の諸条件や文化・慣習がある社会であれば成り立つかもしれない。

しかし、現代の先進国は概ねキリスト教的な一夫一婦制と貞操観念の影響を受けており、基本的には『好きな相手とだけ子供を設ける・性交はしても避妊はする(性と妊娠・育児の切り離し)・育児は核家族(夫婦だけ)で育てられるか祖父母の援助を受けるくらい・大勢が参加する不特定の相手と行きずりの関係を持つようなハレ(日常の倫理放棄)の風習は存在しない』という環境に変わっている。

妊娠出産は『自然ななりゆき(大家族・村が子を食べさせる責任を分担する背景)』ではなく『個人責任を問われる自己決定』へと大きく転換した。本能に任せた自然ななりゆきとしての妊娠は、現代では祝われる対象やみんなで養育責任を分担するきっかけなどには成り得なくなった、結婚せずに妊娠をする『できちゃった婚』や父親が不明なシングルマザーには道徳的な批判・蔑視を向ける人がかなり多い。

養子制度も廃れ、血縁(DNAの継承性)と夫婦の貞操を重視する男女が増えて、『自分以外の相手の子供』を女性が出産したとなれば、それは重大な裏切り行為とされて、夫婦関係や育児環境が破綻してしまう恐れのほうが圧倒的に高い。

排他的な一夫一婦制と婚姻制度は、一人の男と一人の女がその人だけを愛して関係を持つという倫理的前提に立脚しているので、『子供を設ける機会と能力(不妊回避)』は婚姻制度や親子関係(血縁)へのこだわりが弱かった時代よりもかなり限定的になっているが、そのためにかえって『結婚・育児で失敗したくないというリスク回避(個人の選り好みや条件判断)』で決断が先送りされたり放棄されるという事態も出てきやすい。

現代人は『自然ななりゆき・不可避のライフイベント』では妊娠しないし妊娠しても産まないのだから、決断して個人単位の責任を負わなければ子供は生まれてこないのである。かつてのように結婚しなければ実際問題として女性が生きていけない可能性が高いとか、出産しなければ顔見知りばかりの地域共同体から奇異な目で見られたり仲間はずれにされたりするとかいうことも減ってきているので、『結婚・子供・家族に対する価値観や憧れ』によってはいわゆる母性・家庭性が強い人もいれば弱い人もいるというのは当たり前ではある。

記事にある子供を持つことがエゴイズムなのか、子供を持たないことがエゴイズムなのかというような問いは、人間は自分の生きる意味や価値を『自分なりの好き嫌い・判断基準・社会(他者)との距離感』によって追求するエゴイズムから離れて生きることはできない以上、ナンセンスな問いである。

『子供を持つことの客観的価値』も『子供を持たないことの客観的価値』もいずれも自分がしたかったことを選んだ上での“後付け”になってしまうところがあるからだが、最も根本的なことは『既存社会や人類の継続性』と『自分にとって幸福や安らぎを感じられる生活・人生の状態』ということになるだろう。

なぜ子供が欲しいのか、本能的に好きな相手の子供を設けたいというのもあるが、単純に考えれば自分とパートナーの人生がこのまま子孫を残さずに消滅してしまうこと(誰も自分たちのことを覚えていたり語ってくれる人がいなくなること)が虚しいからであり、中年期以降の長い人生・生活の場所が一人だけ二人だけでは物足りない、『孤独な老後の想定』が寂しいから少しでもその可能性が減る行動を取りたいからである。

『家族を増やしたい(子供を持ちたい)・結婚したいという動機づけ』を素直に若い頃から持てる人というのは、根本的には『自分の育った家庭が幸せだった・自分の両親が仲良しだったり尊敬していたりする・結婚式や家族といったものへの憧れが小さな頃からある・静かな所より賑やかな所が好き・簡単には離れない安定した関係性が欲しい・ずっとこの先も一人のままだったらと思うと怖くなる・常に自分の味方や話し相手になってくれる人が欲しい』といった考え方や性格傾向を持っている人が多いのではないかと思う。

『家族を増やしたくない(子供は欲しくない)・結婚したくないという動機づけ』を持つ人というのは、根本的には『自分の育った家庭を再現したいとは思わない・結婚や子供に対して大きな負担やコストを負いたくない・自分の両親が不仲だったり尊敬できない・小さな頃から結婚式や家族に余り憧れがなかった・賑やかな所より静かな所が好き・安定した関係性を束縛や強制に受け取ってしまう・一人の時間が好きだったり気の合う相手を自分で探せると思っている・他者や社会への信頼感がそれほど高くない(社会や人類の永続的な存続を望んでおらず滅びるなら滅びるでそれも運命である)』といった世界観や考え方を持っている人が多いだろう。

先進国では『他者との義務的・必然的な付き合い(一緒にいて楽しいわけでもない相手との付き合い)』を回避する個人が増えていて、それが雇用構造の変化と合わせて『家族の規模の縮小→核家族・夫婦のみ世帯・単身世帯』への移行をほぼ不可逆的な流れにしてしまっている。

ある程度の子供・孫の数がいるはずの現在の高齢者でさえ、過半数は単身世帯・介護施設暮らしになっているのだから、子供を作れば老後の最期まで孤独な寂しい思いをしなくても良いという考え方は、よほど尊敬されて好かれてきた人か財産を持っている人かでない限り、『現実的な裏づけ』を欠いている。

住環境の広さ・部屋数や家族内部の家内労働の担い手の変化も急速であり、家の中に寝たきりや認知症の高齢者がいても、余裕を持ってケアする要員と経済力のある家など殆どないのが現状である。

家族・血縁者だから絶対に助け合わなくてはならないという『共同体的・宗家統制的な相互扶助のエートス』に多くの人がコミットしなくなっており、家族であっても子供(親)であっても血縁者であっても『自分らにとって不利益・負担になる人(何か問題や面倒くささを抱えているように見える人)との付き合い』はできるだけ避けるようになって規模は縮小してしまう。

結婚制度も血縁関係も『永続的な最期までの人間関係』を保証してくれるものかどうかは、『それぞれの個人間の人間関係の濃度・愛着・尊敬や感謝』に大きく左右されるようになっており、形式だけの婚姻や血縁は『熟年離婚・別居・疎遠(無連絡)』のリスクがあり、『家族だからずっと一緒にいて当たり前・困ったら面倒を見てくれて当たり前・借金や浮気、DVなどむちゃくちゃなことをしても夫婦だから許してくれるはず(男権社会の半強制)』の論法が通じにくい場面も増えた。

良好な関係はみんなが維持するための努力をしなければ維持しづらくなっており、家族でも親子でも『相手から決定的に嫌悪・軽蔑・憎悪されればおしまい』になるし、かつてのような大家族の共同体にあった関係修復・義理立ての仲介者もいなくなった。『本当に相手のためを考えて行動し続けられる人』か『わがままな相手でもかなりの部分を許容してやっていける人』でないとなかなか現代の家族・血縁の持続性は保ちにくいのかもしれない。

気の合わない他者を受け容れられない人が増えて、お金と技術で大半の当座の問題が解決するようになれば、家族規模は縮小して核家族が増えるし、配偶者に対して嫌悪感や違和感が増えれば離婚する人も増えることにはなる。離婚しなくても多世代同居が減った現代では、夫婦のどちらかが高齢で死亡すれば晩年は生き残ったほうが単身世帯になりやすい、その時にどれくらいの頻度で子供・孫が遊びにやってきてくれるか、老後の生活をマンパワーで支援してくれるかはその人の人徳や過去の行いの積み重ね、子や孫の性格、居住地・生活状況によって変わってくるだろう。

子供を持たないことのエゴイズムは、『自分さえ良ければ未来の世代はどうでもいいのか・他人が産んだ子供の社会保険料で支えてもらうのは不公平ではないか・みんなが子供を産まなければ国家や人類が滅亡してしまう』といった形で批判される。

子供を持つことのエゴイズムは、『子供の幸せな生育環境をきちんと準備できるのか・子供を未来の労働力(兵力)や税源のように考えて大人のために生んでいるのではないか・世界は人口爆発になっており、消費量の多い先進国の人間が増えれば資源が枯渇する恐れがある』といった形で批判される。

その根っこにある生き方や価値観の違いというのは、『自分が生まれてきて良かったと思っているかどうか・生まれないなら生まれないでも良かったと思っているかどうか』や『自分と同じような価値のある人生を子供世代にも体験させてやりたいと思っているかどうか・自分自身が苦しくて大変な人生なのに子供に同じようなつらい人生を繰り返させるのではないかと恐るかどうか』といった辺りにあるが、『世代を超えた継続と前進を願うオプティミズム』と『一世代の燃え尽きと消滅を願うニヒリズム』との相克は現代人ならではの知性と将来予測が生み出し加速させているもののように感じられる。

どちらがエゴイズムなのかの判断は難しいが、『有・あること・継続すること』と『無・無いこと・静寂になること』のせめぎ合いというのは、現代的な頭でっかちの葛藤でもあるのだが、一方で古代のストア主義(エピキュリアンの精神的快楽主義)や仏教思想(輪廻転生・解脱)、老子荘子(無為自然)にもその淵源を求めることができる普遍的な人間心性の揺らぎのようにも感じられる。