■「学歴は関係ない」は暴論? 公平を謳う企業の採用に潜む、隠れた学歴差別の罠
昭和中期までの学歴は、大学進学率が低くて家柄・経済力と最終学歴の相関が強く、大半の庶民が経済的理由(親の教育意欲の低さ・家計の支援要請)によって中卒・高卒で就職していった。
そのため、学歴は『擬似的・近代的な身分制度(大卒=無条件のエリート候補)』に近いものとして捉えられていたと同時に、庶民の所得上昇に従って『学歴=社会・職業階層の流動性を高める制度』として親の子に対する勉強熱(学力競争の一点集中化)が急速に高まった。
家の事情で進学が許されなかった人の割合が高い50~60代以上の世代は、自分の学歴や職業的威信に対する劣等感だけではなく、『学力競争の機会の格差(家が裕福でなかったから中卒高卒に甘んじただけ)』に対する未練も強い傾向がある。
また、この世代は『年功序列賃金と終身雇用・学歴不問の採用環境(金の卵・努力と実績の人事評価)』によって、真面目に同じ会社で働き続けてさえいれば学歴が高くなくてもそれなりの地位・所得に辿り付けた層(高卒の現場叩き上げで上場企業の経営陣に入ったような人もいる)であり、『子供の教育に対する投資の余力』を持っていた。
端的には、現在30~40代の人たちの親の世代は『学歴の階層的な権威主義・俗物主義』にかなりの程度影響されている人が多く、新卒時(20代前半での卒業時)の学歴を生涯にわたって変えられない『知性・選良・権威のスティグマ(烙印)』のように捉えて、その入試難易度の高低によって相手に対する態度があからさまに変わったりしやすい。
この権威主義は、『現時点の能力・知性教養の高低』以上に『過去にどの大学を卒業したか』を重視するという意味において、擬似的な身分制度として機能していた。この世代は、経済的事情や早くにほとんどが結婚して子供を持っているという環境からしても、社会人になってからもう一度大学入試を受け直すといった選択肢自体が想定されていない世代(稀に高齢者になってから大学入試を受けてみるといったメリットを考えない課題へのチャレンジをする方もいるけれど)でもある。
裏返った見方をすれば、彼らは自分自身が就職後にいくら努力しても『学歴の上での評価・承認』を得られなかったこと(あるいは高学歴者からあからさまに差別的・侮蔑的な態度でお前に言ってもどうせ分からないだろうとでもいうような知的に格下の扱いを受けたこと)で、その不条理・悔しさが『学歴競争における子供世代での敗者復活戦』につながったと見ることもできる。
それは学歴が低いから昇進昇給しても上限があるとかいうことだけではなく、どちらかというと『過去の学歴が低い=無条件に現在の知的水準でも劣っているはず(現在の知識・技術・教養によって再評価されても学歴の権威以上のものとならない)』という社会・世間の擬似的な身分制(知性の階層構造のイメージ)に依拠した不満・憤りといった側面も持つ。
それを分かりやすい言葉でいえば、東大法学部・医学部を頂点とする学歴主義であり、『高い学歴を得れば得るほどに楽な仕事で高い所得と地位・尊敬が得られる(政治家・官僚・法曹・大企業幹部に東大法学部卒が多い)』といった思い込みに支えられている、日本の政治・経済社会の共同幻想的なピラミッド構造といっても良い。
現在でも50~60代以上くらいの世代の人(特に地方部の人)には、『東大・京大を出ていればどんな仕事でも選べるはず、妥協して楽をしてもそれなりの稼ぎと地位が得られるはず』といった学歴信仰にも似た学歴の全面的優位の思い込みは相当に強いのだが、現実には東大・京大を優秀な成績で卒業して司法試験にも合格した法曹でさえ、左団扇・余裕綽綽で平均所得を遥かに超える収入が得られるような時代ではなくなった。
高学歴者にフリーターやニート、ひきこもりがいる(労働意欲・稼いで地位を得る欲が低かったり、早々に若くして競争市場から撤退したような人もいる)というようなニュースに対しても、『そこらの会社で働くことよりも難関大学に入ることのほうがよっぽど難しいのにもったいない、一体どうなっているんだ(俺みたいな大して勉強していないバカでも何十年も会社勤めをして家族を養ってきたのに)』といった的外れな反応が帰ってくることもある。
一時代前の人たちにとっては、国立大・有名私立大の高学歴者は(前近代の中国の科挙ではないが)『無条件に厚遇・保証されて当たり前の特権階級(高学歴ならよほど大きな失敗をしない限り人生の最後まで安泰)』といった擬似的な身分制の認識を引きずっている。
だが、現実の経済・雇用・会社はここ20年ほどで大きく変化しており、ただ学歴が高いというだけで『楽な仕事や好きな業務・良い待遇や地位』が、持ち回りの順番で回ってくること(その学歴の職場での効用が何十年間も衰えずに続くこと)などおおよそ有り得なくなった。
そもそも、高学歴者が就職する会社・機関には、自分と同程度以上の学歴・キャリアを持った人たちが集結して激しく競争する場であることも多く、学歴が高いという条件はみんながパスしていて相対的な優位性は殆どない。高い給料は要らない、精神的にきつくてノルマの厳しい仕事はしたくないということで、高学歴者がルーティンワークや事務作業のような比較的に楽な定時で帰れる仕事をしたいと思っても、逆に学歴が高いことで冷やかし(職場に馴染めない)と思われて門前払いされてしまうこともある。
逆に『高学歴・高スペックな人材ほどに高いハードルと困難なミッションの成果・長い労働時間・厳しい競争』を求められるケースが増えており、国内・海外の最高学歴を積んでからトップレベルの民間企業や官僚に就職する人たちが、『中卒・高卒・平均的な大卒の人たちよりも楽な労働環境』に入れるなどというのは完全に幻想だ(稀に一部の公的機関や競争原理が働きづらい業界などでは楽な職場でまずまずの待遇はあるかもしれないが)。
反対に高学歴・有能者であるからこそ、殺人的なスケジュールや業務・多忙に追い立てられて『仕事=人生のほぼ全て』にならざるを得ない状況もあり、その仕事が『自分の天職(やりたい仕事・やるべき任務)』と思えなければその負担やストレスに押しつぶされて、メンタルヘルスを崩してうつ病になったり中途脱落(自己都合の離職)して次の就職に困ったりもする。
実質的には、自分の選んだ仕事なり会社なりが、自分がずっと続けていきたい仕事(ずっと所属してもいい会社・同僚)と思えるかどうか、報酬だけではなく負担・やり甲斐・意味の面でも『天職に近い仕事』と思って取り組めるかどうかのほうが、形式上の学歴・所得水準よりも自分の幸福実感度に強く関係してくるはずである。嫌々ながら疲労やストレスに耐えるだけの仕事をしている(その代償となるものもない)というのは、他のいかなる好条件も吹き飛ばすほどに不幸感・不遇感を強めてしまう。
お金はあっても使う時間と気持ちの余裕がない、人生そのものは大して楽しくない(仕事の責任ややるべきことにいつも追われている)という人もまた増えていて、『数字の所得』が高ければ高いほどに幸せというわけではない。
少し前にも、民間病院の院長に昇進したばかりの、真面目で信頼できる人物と患者から慕われていた医師が、突然『仕事の責任・重圧のストレス』に耐え切れなくなって死にたい衝動に襲われ、自分の病院の透析患者のチューブを引き抜いて殺そうとする事件を起こしたが、『高学歴=典型的な昔の楽なお役所仕事のイメージで定義されるホワイトカラー』ではなくなっている。
どの業界でも高学歴の有能な人材が体力・気力の限界に近いところで踏ん張ったりしていて、経済的なメリットにおいても『税金と保険料を厳しく徴収される所得水準のレンジ』に当てはまりやすく、社会の常識的なライフデザインに合わせる真面目な人が多いので『家庭・子供を持ちそれなりの生活や教育投資をする負担』というのも人並み以上のものになりやすい。
高学歴を得てまっとうにいけばいくほどに(人から見て成功路線に進むほどに)、努力に努力を重ねる生き方をブラッシュアップさせないと適応しづらくなるという意味では、『大学合格をゴールと勘違いするな・会社入社をゴールと勘違いするな・結婚や出産をゴールと勘違いするな・常に今よりも優れた自分を手抜きせずに目指せ』というストイックで目的嗜好、社会への模範的適応の生き方をきちんと出来る人でないと『こんなはずじゃなかったライフスタイル(大卒後のキャリアデザインや仕事人生のイメージが甘かった)』になりやすい落とし穴はある。
学歴の効用は言うまでもなく、『最終学歴・入試難易度が高いほどにサラリーマン(雇われる立場)として選べる職業・会社の選択肢が広くなる』や『大卒・難関大卒のほうが平均賃金が高くなりやすく、社会一般で知性・努力・潜在能力を高く見積もってもらいやすい』ということである。
ただし、自営業・起業家・技術者など実力勝負が物を言うジャンルであれば、誰かに査定されたり足切りされて選ばれるわけではないので、学歴の効用は肩書きの権威だけになりやすく、サラリーマンとして就職する時ほどの効用はなくなる。
学歴の限界は、『最終学歴・入試難易度だけで評価の底上げを得られる期間が、新卒採用段階とその後数年に限られるなど短くなった』や『医学部・薬学部など職業直結型の実利的な学部ではない民間企業に就職しようとする学部の就職率・キャリア選択が厳しくなった』『学歴があるからといって楽な仕事・好きな業務・高い所得が自動的に保証される擬似的な身分制(キャリア官僚のような待遇)の時代は概ね終わった』ということだろう。
学歴の最高の効用・価値は『権威主義・特権待遇』によって生み出されるが、昭和期くらいまでは『一流大学の卒業・難関資格の取得=一生涯に及ぶ職業的地位や経済水準の保証』という極めて大きな効用があったので、年配の人ほど学歴・国家資格を絶対的なカードと見なしがちだが、現在は『高学歴者間の競争原理の厳しさや仕事自体のきつさ・長期雇用保証や予定調和的な昇進の減少・高学歴者本人の価値観や経済的な向上心の変化(雇用キャリアからの自発的離脱・メンタル悪化)』など複数の要因が流動性・不透明性を高めてしまった。
『学歴は関係ない』というのは、学歴による所得格差(生涯賃金格差)はあっても、『学歴と幸福実感度(仕事の楽さあるいは充実度)の相関関係』がすんなりとイメージしづらくなったということに関係している可能性はある。単純に、学力格差・意欲格差の拡大の影響や認知的不協和の現れという見方もできるが、もう一つは『高学歴者自身による高学歴・エリートであることのメリットの感じにくさ』に由来する側面もないわけではないだろう。
現代社会の大きなトレンドの変化として、『経済資源の希少性・価値』と同等以上に『時間資源の希少性・価値』が認識されやすくなり、無職(ニート)・失業者のように『時間は沢山あるけどお金が全くない』も嫌だけど、ハードワークで帰ったら寝るだけ(休みも極めて少ない)という『お金は沢山あるけど時間が全くない』も嫌だというダブルバインドの心理的葛藤に襲われやすくなったことがあるのではないか。
大半の人は、『経済資源(お金・モノ)』と『時間資源(時間・自由)』と『社会資源(承認・使命感)』のほどほどのバランスに理想を求めるが、ハイスペックで高学歴者としてのレベルが上がれば上がるほど『個人のプライベートな時間』は圧縮されて、組織・社会・顧客・他者のために自分の人生と能力を常に注ぎ続けるようなライフスタイルに適応できないのであれば、現在のキャリアやステータスを捨てるしかない(高学歴ワーキングプア・起業や一次産業への回帰など)という状況になりやすい。
ワークライフバランスではないが、学歴やキャリア、報酬が高くなりすぎると(ビジネスオーナーや投資家など自分自身が長い時間を投じて働かないような収入の得方は除いて)、『経済資源(お金・モノ)』と『時間資源(時間・自由)』と『社会資源(承認・使命感)』のバランスが崩れやすくなり、仕事人間か社会的使命(社会・顧客への貢献)を常に重視する人間になることを直接・間接に要求されることになる。
自分の時間資源のすべてを社会・他者に注ぎ込む生き方(それが自分の望んでいた仕事や影響力であれば良いのかもしれないが)を幸福で理想的と思える人が、恐らく先進国では減っているのではないかと思われる。
これは高学歴の効用低減だけではなく晩婚化・少子化といった婚姻の効用低減とも関係している可能性があり、いわば『個人主義の最適化戦略』における『ほどほどのステータスや負担感の維持』ということになるのかもしれないが、『努力に努力を重ね続けられる・死ぬまで休む暇もなく突っ走る』といった生き方(私的な遊び・趣味・関係などを最小化するかほとんど無にしてもOKとする生き方)を肯定出来る人はある意味では最高の成功者(それは経済的な損得のレベルを越えて世界・社会・経済と自己存在が無理なく一致していることになる)でもあるだろう。