道徳の教科の格上げ:『権威主義+綺麗事(徳目主義)+点数評価』に陥らない工夫を。

道徳とは何か。道徳とは、人として踏み行うべき道、善と悪の判断基準であり、徳を身につけた人物の行動理念である。『道徳』を授業で正解のある知識として教えたり、覚えさせた正しい振る舞いや意見を先生の前で再現させたり、ペーパーテストで確認することに意味があるかといえば恐らくない。

道徳の教科格上げ、「公平」「正義」指導へ 心配の声も

道徳は、『知識として知ること・語ること』は極めて簡単だが、『行動として行い続けること』が極めて難しいという性格を持つ。古代ギリシアの哲学者や古代中国の儒家たちが、『知徳合一(正しいと知っていることと実際に行うことを一致させよ)』を道徳の根本とした所以でもある。

道徳の本質は、社会生活を営む人間が他者とお互いを尊重して共生できるようにすること、あるいは人間が他者からその人格的価値を認められて慕われるようなヴァーチュー(美点・卓越)としての徳を高めていこうとすることである。

道徳教育について、教育勅語を懐かしむような復古的な意見もあるが、教育勅語の最大の欠点は『人間一般としての徳』ではなく『天皇・国体を支える臣民としての徳』であるため、ローカルな忠孝の規範性が優位に立っており、ローカルな規範の外部にある国・異民族に対しての共感的な徳性に配慮されていないこと(人間より国家を優先する道徳の道具化)である。

近世以前の日本の道徳の淵源としてある孔子の儒教でさえ、義・忠・孝にも優越する普遍的な徳目として『仁(他人に対する愛・思いやり)』を掲げ、仁はあらゆる望ましい人間関係(他者を自分と同じように大切にしようとする心がけ)の根本にあるものだとした。

いわば、普遍的な徳である仁・愛は、社会的存在である人間が他者との共生や相互尊重のために目指す『自由(他者に危害を加えない)』と『親愛(互助)』に連結する射程を持つものである。道徳教育というと難しく感じるが、『仁・愛の知徳合一』ができれば、それで大部分の社会生活や人間関係は上手くいく(誰も傷つかずに済む)という話に収まる『知識としては簡単なもの』でもある。

だが、その持続的な実践や裏表(差別)のない振る舞いとなると、大人であっても『仁・愛の知徳合一』ができるものはおよそ皆無といって良い。

なぜなら、人間はさまざまな形で『他者の好き嫌いの区別・人間性や能力の評価の高低・非難や懲罰を与えても良い理由探し』を行い、他者に対する思いやりのなさや攻撃性(あいつはそんな目に遭っても仕方ない)を正当化するロジックを自分や仲間内で作り上げていってしまうからである。

そもそも、親を大切にしましょう、友達と仲良くしましょう、きょうだいで助け合いましょうといった『一般常識に類する道徳』を知識として知らない人、テストに出されて間違う人というのはいるはずがない。

親を粗末にして、友達をいじめて、きょうだいでいがみあうのが正しいと思っている人はいないし、『実際に家庭内暴力・いじめ・兄弟の骨肉の争い』をしている人だって、テストでそういった事例や状況を挙げられて『どうすべきだと思いますか?この人たちの行動は正しいですか間違っていますか?』と質問されれば、無難な模範解答を書き上げることは難しいことではない。

だが、『一般的な道徳原則』と『個別的な自分が向き合っている相手・状況』とが切り離されてしまうのが人間というものの性である。道徳実践の困難とは『一般的な道徳原則に反しても仕方がない状況・相手』というものが、私には有り得るのだという『自分の特別化』によって生じる。

あるいは、二つ以上の徳目が自己矛盾を起こして対立する状況、『正直であれば自分や誰かがひどく傷つくような状況』や『公正であれば仲間内の利益配分が疎外されて自分が裏切りものになる状況』によって、大人でさえも政治家・先生でさえも、一般的な道徳原則に反するのもやむを得ないという利害判断(保身)をしてしまう。

これを大多数の人は、現実的な判断や優先順位(プライオリティ)の問題と呼ぶし、状況や条件によっては『教条主義的な道徳の遵守』は誰かを酷く傷つけたり、社会的な損失を極めて多くするリスクも伴うことになる。

道徳教育を管理監督することになる教育委員会の一部は、いじめや体罰が原因だと遺書に書き残して自殺した生徒に対して、『私どもはいじめ(体罰)が自殺の直接の原因だとは認識しておりません。自殺といじめの因果関係は不明であり、原因の推測は控えたい』といった釈明をしたが、これは典型的な『一般的な道徳原則よりも他の利益(責任の曖昧化)を優先した結果』であり、正直さや誠実さという徳目の対極にある振る舞いである。

『正直・誠実・公正・公平・正義』といった自らが実践できるはずもない徳目を、政治家や教育官僚が語るというのも自虐的だが、道徳教育が権威的・教条的になると『国家・権力者にとって都合の良い扱いやすい国民の教育(上位の権威やみんなの意見に対する服従・奉仕)』や『状況や相手に応じたケースバイケースの柔軟な判断力の欠如(教えられた通りに動くマニュアル人間)』につながる副作用も生む。

道徳というのは例外のない義務論ではない。インマヌエル・カントは道徳的な格率(規則)を機械的・服従的な義務として捉えたので、例えば嘘をつかないという正直さについて『殺人者に追われている人の居場所を知っていれば教えるべき・相手の悩んでいることやコンプレックスについて正直に話すべき』という常識からかけ離れた『例外のない義務論の道徳』を主張したが、こういった融通・配慮・想像力を欠いた道徳の原理主義的な考え方や教育は有害無益なことが多い。

道徳の徳目とは抽象的かつ普遍的な『綺麗事(目標設定)』として提唱されるものだが、道徳の本質は徳目を記憶したり機械的(義務的)に遵守したりすることにあるのではなく、人間が他者・社会からその人格的価値を認められて慕われるようなヴァーチュー(美点・卓越)を自律的に示すことにあると考えたほうが良いだろう。

だからどんな時にも例外なく正直であればそれでいいとか、どんな状況であっても正義を押し通すべきだとか、怯まずに勇敢であればあるほど価値があるとか、誰に対しても常に公平であるほうがいいとかいうような『状況や人の心を切り捨てた徳目の普遍化』には、思わぬ副作用がつきまとうという現実がある。

抽象的な綺麗事と具体的な現実との兼ね合いを、体験的に学んでいくことの必要というものも生まれる、人は理想と観念を『実際的な社会生活・人間関係』の中でどこまで具体化していけるか(道徳の一般原則を大きく踏み外さずにいけるか)の見通しを持たずに生き抜くことはできない。

道徳の点数評価に関しては、『道徳の知識としての記憶・評価者である先生の前だけでの振る舞い』に意味がほとんどない以上、何を基準にして良い点数(○)と悪い点数(×)をつけるのかが分かりにくい。

『自由や権利の過剰』が現代の道徳の衰退を招いたという意見もあるが、日本人の道徳に関して言えば『今よりも昔のほうが道徳・マナーが守られていたか?』について社会学的な資料研究では批判的な答えが出されていることも多い。

かつての道徳は『ムラ社会(共同体)で笑われたくないという恥・見栄の観念』に支えられていた世間体から派生した道徳の側面が強く、『他人の欠点・失敗・みすぼらしさをみんなで笑うといういじめの感覚(バカにされたり笑われたりいじめられたくないという自己防衛)』と背中合わせであった。

個人としての自律的かつ主体的な道徳性の発露のためには、むしろ『自由・権利の対等性(自分だけではなく他のすべての人にも自由・権利がありそれを侵すことはできない)』を深く理解しておかなければならず、自由や権利を知っている人はむしろいじめ・暴力・犯罪・権威主義(権力のパワハラ的流用)といった『他者の自由の侵害』から最も遠い啓蒙的スタンスに立つ。

自由・権利とは『何でもやりたいようにできること』ではなく『他者から強制・危害を加えられないこと(他者を思いやるから自分も思いやられること)』というのが、西欧の社会契約論においても原義的な理解であり、お互いの自由や権利が守られる住みやすい社会の前提として普遍的な徳としての『仁・愛』が要請されるとも言える。

人間の人格的な価値や倫理的な振る舞いについても、大多数の人は『どのような人が人間的に魅力的でかっこいいのか』ということを知っているはずで、『殺人者・弱い者いじめ・盗人・強欲(吝嗇)な人・粗暴な人・怠惰な人・冷淡な人(意地の悪い人)・口の悪い人(人を傷つける人)・騙す人(嘘つき)』などが道徳者、仁者として尊敬されたり憧れられたりすることはない。

徳を身につけるとはどういうことなのかは難しい問いだが、『他者から人格的価値を認められて慕われるようになること』であるだけではなく、『偽り・ごまかしがなく自分自身の行いや考えを好きでいられること』でもあると言えるだろう。

他人をいじめたり追い込んだり、悪口を言ったり、怖がらせたりしている時、人は自分のこと(自分の振る舞い)を偽りなく真正面から正しくて好きだとは思えなくなる、そういった心理状態について他人を上手く欺くことはできても、自分自身は本当の意味では欺くこと(そういった自分が人格的・倫理的にまっとうであるとは思えなくなる)はできない。

人間は多かれ少なかれよほど自己愛が強いか楽観的でないと、自分で自分の性格や行動に対して批判的・否定的な眼差しを持つこともあるが、道徳とはそれを完全に踏み行うことはできないとしても、『自分の人格・人生を決定的に貶めないため(超えるべきでない一線は守るため)の防波堤』くらいの役割であれば果たすことはできるかもしれない。

現代で学ぶべきは決まりきった昔からの社会規範を覚え込ませる『道徳』というよりは、行為規範の根拠や選択についてディベートしたり、実際的な場面を再現してシミュレーションしながら自律的な徳(自分の中にあるヴァーチュー)を模索する『倫理学』とでも呼ぶべき学科かもしれない。