1991年のソ連崩壊によって、自由民主主義と自由経済、人権思想、個人の尊厳(プライバシー保護)を国家運営の原理として掲げる『西側の先進国(アメリカ)』が東西冷戦に勝利した。
フランシス・フクヤマはじめ一部の歴史学者から、『進歩主義の歴史』は自由主義・市場経済・人権思想の永続的勝利によって終焉したと見なされることさえあったが、現実はアメリカとソ連のイデオロギー対立を喪失した世界は『民族・宗教・歴史認識・文化慣習』によって細かな紛争・怨恨・不寛容のモザイク模様を形成しはじめた。
『共産主義(コミュニズム)』という階級闘争史観や資本主義の貨幣経済(富の偏在・格差)を克服した“理想の楽園”を目指す共産党の集団指導原理は、ソ連や東欧、南米に『一党独裁の収容所国家・暴力的な革命戦争やゲリラ部隊』を出現させた。
K.マルクスやF.エンゲルスが科学的社会主義の帰結として予見した共産主義は、共産党の指導体制(あるいは革命指導の独裁者)に従わない『個人(史的唯物論の展開を阻害する反乱分子)』を、場合によっては監禁・洗脳・殺害する危険な国家体制の絶対規範として機能してしまった。
旧共産圏の国家体制や指導者が、人民を計画経済や赤化計画の内部で道具化(量的な配置)してあらゆる自由を制限してきた実態が曝露されるにつれて、西側の知識人・文化人の共産主義者もその多くが失望して変節していったが、共産主義は『個人の自由な思想・言論・生き方』を否定して『共産党の目標や計画経済のノルマ(社会全体の計画的な生産・軍事の体制)』に無理矢理にでも従わせるという意味で反近代的な思想・原理であったと言える。
東西冷戦にアメリカと西ヨーロッパ諸国、日本が勝利したことによって、『近代(モダン)』という歴史区分と統治原理、個人のライフスタイルは、あらゆる国家や民族、地域、宗教が最終的に行き着くべき『普遍的な価値規範』のようにみなされるようになったが、果たしてこれは科学的社会主義や史的唯物論と比較してもより『客観的・科学的』と言えるだろうか。
2000年前後まで、先進国の政治家や政治学者、知識人といった人たちは、中東・ロシア・中国・アフリカ・南米などを『遅れている開発途上国(時間はかかってもいずれは自由民主主義を受け容れる素地を整えられるはずの国)』と見なしていた。
その上で、『知的な啓蒙活動・経済的な豊かさの増進・洗練された文化や個人単位の価値観の普及・先進国の資金や技術の支援』によって、いずれはアメリカや西ヨーロッパ諸国、日本のような国に発展していく(個人の人権・自由を尊重するようになる)という史的唯物論をなぞるような仮説を立てていたのである。
だが、2001年の9.11のアメリカ同時多発テロの発生によって、『教育・経済・時間だけでは解決しない価値観の対立軸(サミュエル・ハンチントンが提唱していた文明の対立(世俗化したキリスト教圏と前近代的なイスラム圏の対立)めいたもの)』が浮き彫りになった。
中東のシリアやイラクで勢力を急拡大しているイスラム国(ISIS)は、アメリカやEUが世界に普及させようとしている『人権思想・男女平等・個人の尊厳・自由主義経済(市場の競争原理)』を、圧倒的な集団の暴力と残酷さであざ笑うかのように蹂躙し続けているが、イスラム原理主義と反米主義・テロリズムの結合は『個人の自由・権利の否定(暴力と恐怖による個人の強制的な服属による統治)』へと必然的に連続している。
アメリカやヨーロッパ諸国が東西冷戦の歴史的勝利によって、その普遍性(理性的優位)を相互承認した内容は『個人が理不尽に体制(権力集団)から支配されたり殺されたりしない統治体制』であったが、イスラム国(ISIS)はイスラム教の教義・伝統に基づく支配領域の拡大と反欧米文化の価値観を『金科玉条(国際法・人権思想・個人の権利よりも上位の規範)』として、侵略・虐殺・拷問・強姦などが『大いなる目的』の元で処罰されることもなく放置されている。
自由民主主義や人権思想は、理性的かつ論理的(倫理的)な思考の帰結として否定することができない、暴力やテロリズムによる現状変更の試みは許されないという欧米中心の歴史観は、イスラム国(ISIS)などからすれば『持てる者の内輪のパーティー』にだけ通用するものだという冷ややかな見方がされている恐れが強い。
欧米諸国がイスラム圏よりも先進的かつスマートだという前提に立った、『近代化の啓蒙のスタンス』そのものがイスラム国やイスラム過激派(イスラム原理主義者)には不快・屈辱だと感じられているだろう。
イスラムが近代化(個人の自由・尊厳・利殖)を阻害する遅れた不条理な宗教という欧米視点のロジックを、『イスラム教に基づく政治体制・国家建設(欧米由来の価値観の排撃・米軍のプレゼンスの後退)』によって頭から否定しきってやろうとしているかのようである。圧倒的な集団の暴力と恐怖による進撃(暴力による現状変更)で、『イスラムの価値観と勢力の拡大』を欧米の理性的なロジックと空爆主体の軍事制裁でも止めることができないとデモンストレートしているのである。
イスラム国(ISIS)のやっていることは、日欧米の国際法規範や人権感覚、常識からすれば『蛮行・殺戮・暴挙』という他はないが、宗教の原理主義・過激派勢力の恐ろしいところは、『神・教義・伝統』が法治主義や個人の生命の上位(メタレベル・ノーム)に当たり前のように押し上げられてしまうことである。
欧米や日本の先進国では歴史区分が、既に近代を飛び越えたとして『ポストモダン・ポストポストモダン・脱近代(超近代)』といった言葉遊びめいた思想空間が拡大しているが、その一方で日米欧の先進国においてさえも『持てる者の内輪のパーティー(中流階層としての社会帰属・物質的豊かさ・プライベートの満足)』から外れる個人が増大していることには注意も必要である。
先進国でも『国家・民族・思想・仮想敵・宗教』といった集団的な共同幻想によって自己アイデンティティを再構築したり、他者にもその影響力(拘束力)を広めたいという『自由で平等な個人が社会を形成するという近代的価値・前提からの離脱者(前近代へのバックラッシュ・個人の自由よりも国家の強大さの重視など)』が増えている。
つまり、歴史展開的あるいは論理・倫理的な普遍性を持つと考えられてきた自由民主主義・人権思想に対して、『自分にとってのメリットや必要性が感じられない(強制されない形式的な自由だけがあっても格差・無力感・生きる意味の欠落などで使い道がない,全体的な権威やみんなの目標とかによって生きるべき方向性を無理矢理にでも示して導いて欲しい)』という問題が深刻化しつつあるのかもしれない。