イスラム国や北朝鮮はじめ外交・理性が通用しづらい好戦的勢力の脅威がある事で、国家権力が他者を殺し防衛する先進国の軍事・国防は辛うじてその正当性を保っているが、本来は『他者を殺してでも(自国民を殺し合いに参加させてでも)目的を達成する戦争』は国家といえども正当化できない。憲法9条の平和主義は戦争放棄でもあるが『国家や権力といえども個人に殺し合いの命令はできない(暴力で無理やり要求を通す事はできない)原理』を承認する国を増やす積極的平和主義も志向したい。
「徴兵制の復活」はありえるか?28歳弁護士が「憲法との関係」をわかりやす~く解説
個人が個人を殺害する殺人は重罪であるが、国家が国民に敵と見なした人間を殺しても良い許可を与える戦争は『プリミティブな共同体主義』を離れた現代人には容認しづらい。何の怨恨も関わりもない外国人の殺傷は、戦闘的な国家主義・仮想敵・歴史観のフィルターを通さなければ狂気である。
戦争は外交の一手段だというクラウゼヴィッツの戦争観や性悪説・権謀術数のマキャベリズム、勢力衝突の地政学を高所から語る人もいるが戦争は殺して殺される当事者からすれば『全てを理不尽に失う現実』にしか過ぎない。そして大多数の国民は戦時体制において『失い続ける弱者・使役される側』で地政学を語れる身分ではない。
現代の日本において『徴兵制の復活』が有り得るかは、『現行憲法による制約・憲法改正の可能性・国民の価値観の変化(軍事力とリンクした愛国心奨励など教育の変更)・米国的な経済的徴兵制』などの観点から考えられる。徴兵制には『安全保障上の有用性』だけでなく『国家主義的な国民精神の涵養・動員』の意味合いもある。
徴兵制の復活は、現行憲法の条文が維持される限りは、よほど強引な解釈をしないと有り得ない。軍事活動の専門化・細分化や訓練期間の長期化によって安全保障上の必要性も弱い。だが国家への忠誠や軍隊の必要など教育内容の変化、経済的徴兵制が可能な困窮、日米合同の軍事活動拡大があれば、長期的には分からない面もある。
個人の形式的な人権・自由が憲法で守られていても、実際的にはその人権・自由の有用な使い道がないというような環境・貧困が広まる恐れは低いとは言えない。自由よりも『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ』の形で偉大な国家・歴史や権威的な軍隊の一部に自らも深く組み込まれたいという国民が増えれば空気は変わり得る。
根本的には『法治主義・立憲主義=近代法の秩序』は、『強い者が弱い者に何をしても良い(弱い者が泣き寝入りする)という自然・暴力の支配』を否定して、『理性的・倫理的な正義,個人の尊厳・人権の保護』を公権力(司法)で実現しようとするものだが、その限界として『暴力による強制』しか通用しない人・勢力がある。
言語的コミュニケーションが成り立たない人、約束を守らない人、平たく言えば『言葉が通じない人・勢力(暴力や犯罪に訴えて支配したり奪おうとする人・勢力)』をどうすれば良いのか、今までは戦争・暴力に訴えて無理やり従わせる事を仕方ないとしてきたが、『言葉・共感が通じる人と世界の拡大』が非現実とまでは言えないし、『自分・家族・知人の死を避けたいと願う人間の自然な心情』が外国人であれば分からないということでもない。
だが、国家権力や武装勢力の持つ強制力や共同体性(メンバーの包摂・同調)というものが、個別の賛否を押さえ込むモメンタムは強い、反対を容易には許さない空気・慣性が生まれた時には個別の主張では抗えない。