ヤンキー(不良)が『真面目な人』よりも評価されるわけではないが、学生時代に自覚される『真面目さ』のほとんどは『将来の自己利益の確保・周囲との競争や軋轢(対人魅力・話術の相克における自信の無さ)』の裏返しであることが多く、真面目であるからといって他人に何らかの楽しさや面白さ、メリットを提供しているわけではない。
『周囲が期待している事柄(反応や参加をしたくなる行動・発言)』と『自分が守っている真面目な生き方(規則・常識に違反しない浮かれない生活態度)』とに何らの相関関係もない時には、真面目な人は確かに迷惑をかけない人畜無害な人かもしれないが、『積極的に関わりたくなる人=もっと話を聞きたくなったり一緒にどこかに行きたくなったりする人』ではない可能性もある。
「納得いかない」世の中の風潮1位「ずっと真面目な人より不良から更生した人の方が賞賛される」
『一貫して真面目な人』というのは、下手をすれば融通や応用の効かない単なる堅物(盛り上がっている話の腰を折る・楽しい雰囲気に水を差す)である恐れもあるし、みんなが盛り上がっている話題や活動に何ら興味を示さずに『自分の評価軸(真面目でさえあればいい)の世界』だけに閉じこもっている可能性もあるから、周囲から賞賛されにくいというよりは興味関心を向けられにくくなってしまう。
『不良から更生した人』と一概にいっても、若い人なのか中高年の人なのか、相手がどんな人なのか、更生してからどんなパーソナリティになったのかによっても変わるが、『イキがり続けている威圧的な元不良』ではない『ホスピタリティを身につけた明るくて愛嬌・素直さのある元不良』というのは概ね褒められやすいし好かれやすかったり(とっつきやすかったり)する。
元不良といっても、殺人・強盗・傷害・窃盗をするような生粋の悪人(実質犯罪者)にまでいくとさすがに評価されづらいし、笑い話のネタにもならないが、大半の元不良は『若い頃はちょっとやんちゃしてました』といっても、ただ髪型やファッションが不良風というだけで実際の犯罪・暴力沙汰などは無い人が多い。ほとんどが、目つきが悪くて見た目が怖そう、昔の写真が悪そう(派手な髪型・服装の集団で屯しててヤンキーみたい)とかいう印象論のレベルの話である。
『更生』というのも単純に学校にまともに適応できなかったとか勉強が苦手だったとかいう状態から、学歴がなくても何らかの職業を見つけて働き始めたとか、好きな人と一緒になって(あるいは別れてシングルマザーになって)仕事・子育てを頑張っているとかいうレベルの話だが、元不良で方向転換した人ほど『行動レベルの分かりやすい目標・生活(マクロな理屈や抽象的な議論をこねない労働・結婚・家族にまつわる目標)』を立てて頑張りやすいから、中高年の保守層には意外に受けが良かったりする。
不良から更生した人というか、ちょっと悪ぶっているような感じの人のほうが、良い意味で学歴・知性・仕事の競争意識から降りた素直さを持っていることが多いので、『相手の話している内容・自慢したがっている事柄』に率直な賞賛や感嘆、質問などをぶつけてきやすかったりすることも影響する。
そこそこにできる真面目な人は、時に『相手の話している内容・自慢したがっている事柄』にちょっとした競争心(それは凄いとは思うがトップレベルではない・自分もその分野については一定のキャリアがある等)を持ち込んでしまいがちだが、そこが張り合ってくる(ケチをつけてくる)と捉えられて人間関係における心証を悪くする恐れがある。
『高学歴・イケメン・美女に対するやっかみ』というのも、本当に高学歴・イケメン・美女に対してストレートに妬みひがみの意識や言葉、態度をぶつける人は少なく、大半の人は少なくとも『優れた長所・美点を持つ本人』に対しては素直な賞賛や感嘆、好意を向けてくるものである。
だが、『自分はあなた達とは違う種類の人間である・自分は本来こんなところにいるべき人間ではない』といった自己特別化の自意識は知らず知らずのうちに言葉・態度の節々から周囲に漏れがちでもある。『自分の持っている長所・美点を生かせていない苦境や不満(学歴はあるが職業・収入・人間関係のベネフィットには結びついていないなど)』が周囲にネガティブな自己イメージ(不本意ながらその場所や人間関係に甘んじているというイメージ)を植え付けている恐れもある。
記事にある『本当にどうすればいいかわからない。学歴とかは努力して結果出してるのに、努力してない人に限ってケチをつけてくる』『どちらにしても妬まれていることに変わりなく、何て反応しても無駄』という感想は、本音の部分で鼻持ちならない自尊心(私はあなたたちとは違うという福田康夫元首相的なメンタリティ)の持ち主であるか、単純に遊び心がない対人コミュニケーションが苦手な人なのか……。
裏返せば『努力・真面目さが評価されて当たり前という自分の価値観』が通用しない現状や相手に対して上手く対応できないということである。
本音の部分では『努力してきた自分・真面目にやってきた自分』を周囲がもっと認めてちやほやしてくれてもいいのにそうならない現実はおかしい(努力してこなかったように見える人や真面目ではないように見える人が自分より楽しそうなのは納得できない・なぜ努力してきた知的な自分が努力してこなかった無教養な相手と同じ職場にいなきゃならないのか)という不平不満が心のどこかにわだかまっている。
この本音の部分が柔らかく熔融して人格が成熟し、一人の人間として率直に相手と向き合い、楽しい話題や活動を相手に合わせて模索できるようにならないと、『自分を妬んでいるつまらない相手と上手くやれるわけがない・努力していない奴らと私は違う』という潜在的な自己特別化が(本心ではバカにしている)周囲に馴染むことを拒絶し続けるだろう。
『自分のための努力・真面目さ』と『他人を喜ばせるためのコミュニケーション(話術・話題選択)・行動理念(サービス精神・愛嬌の良さ)』というのは全く異なるジャンルでありスキル・人間性である。人からもっと好かれたい認められたり、輪に入りたいというのであれば、自らが自分の人間性やコミュニケーション、行動理念(自意識)の持ち方を変えて、『相手が求めているもの・楽しめそうな話題や活動』にキャッチアップする方向で努力しなければならない(自分が正しいとか価値があると信じている道だけで努力するのであれば、それはあなたではない他人にとってはどうでもいい努力に過ぎないので、その努力が認められるかどうかはその後の場や活躍次第である)。
そのことを知っていないと、『無条件で他人に認められるべき自分』という過去の真面目さ・努力主義が作り上げてきた自己像から抜け出すことができず、『現実・他人が間違っているという理不尽さや不平不満』に縛られる苦しい時間の中に留まりやすくなってしまうかもしれない。それは真面目さや努力の効用を全く生かせない最悪の対人プロセスや社会適応のあり方になってしまうが、『何のための、誰のための真面目さ(努力)なのか』という原点・動機づけを今一度振り返ることが必要ではないかと思う。