パリの新聞社『シャルリー・エブド』の襲撃事件:近代の『唯物論・科学主義・自由主義』と折り合えないイスラーム

近代化とは『唯物論・科学主義の世界観』を前提とする時代の革命的変化で、前近代の宗教霊魂・怪物など全て『無知・迷信』として退けたが、『目に見えない霊的・価値的な真理』を求める人間の本性は消えない。

フランス・パリの新聞社『シャルリー・エブド』がイスラム過激派を含むグループに襲撃されたが、この事件も『目に見えないものを想像の産物として軽視する近代社会』との深刻な価値対立に根ざしているものである。

アラーやムハンマドの風刺は、キリスト教が十分に世俗化してパロディにしても許されるヨーロッパ社会では 、『多様な風刺コンテンツの一つ』に過ぎないが、そのロジックはイスラム教や生活様式が十分に世俗化・近代化していないイスラム圏にはほとんど通用しない一人よがりなものでもある。

ローマ法王「信仰の侮辱」戒める 仏新聞社襲撃

近代人は『唯物論・科学主義』を真理とする法的・社会的秩序の世界で生きているため、『目に見えないものの価値の信奉』によって『人命・自由』を侵害しても良いとする原理主義を深く理解しにくい。宗教も幽霊も怪物も消費されるコンテンツの一つとなり、『全ての出来事を妖怪のせい』にする妖怪ウォッチ的なフィクションである。

近代人はよほど自我の崩壊の危機に直面するか、生死のかかった絶望の縁に追いやられない限り、『宗教・神=自己存在の根拠を支えるフィクション』という前提を捨てない。そういった『近代と前近代の境界線のメタな自覚』が、イスラム圏の軽視・宗教の風刺を生み、軽視されたイスラムの原理主義者に文明の衝突の怒りを生む。

日本でも創価学会・幸福の科学・立正佼成会・ものみなど新興宗教に入って宗教法人のルールやイベントに従い集団行動する人たちに、同じ日本人でも『フィクションを信仰する異質な他者』といった区別の認識を持つ人は少なくない。日本で『宗教の風刺・侮辱』に暴力での対抗を辞さない宗教団体があったら、その異質感と警戒感(反撃・法的拘束の可能性)は途轍もなく大きいとも思う…。

近代的精神にとっての『宗教の異質さ』とは何か、それは『科学主義的な実験・観察による反証』を受け付けないということ、つまり『いったん信じていることを否定・反証する方法すべてがあらかじめ拒絶されていること』であり、究極的には『人間社会における権利やロジック以上の目に見えない観念』を絶対化している事かもしれない。

哲学史における普遍論争を見れば、前近代社会では『目に見えない神・普遍性を想定された観念』こそが『究極的な実在・あらゆる存在の普遍的根拠』であったが、唯物論の近代化によってその実在の普遍性が、『観念(検証不能で想像されたもの)』から『モノ(検証可能で確認できるもの)』に転換したという流れがある。

しかし、唯物論と科学主義の限界は『人間の生きる意味や存在根拠という価値判断』にコミットできないこと、究極的には資本主義の金銭至上主義や個人単位の競争的な幸福至上主義に帰結するしかなく、大多数の人が唯物論的な価値の虚無に耐え切れずに『恋愛・家族や子供・職責・社会・国家などの観念』に生きがいを求める。

それでもなお、自己存在の根拠の不在や価値感の空虚に耐え切れなくなった人の一部はインテリ指向や思想哲学に流れ、更に一部は宗教団体・宗教的修養に流れ、現世的価値でも知的・宗教的価値でも救われない人たちは、既存社会の経済的・対人関係的な価値のネットワークから脱落・転落を繰り返している。世俗化された先進国の社会にも、世俗化されていないイスラームの社会にも、それぞれの生きづらさや社会問題があるということだが、『文明の衝突』をできるだけ回避して欲しいと願う。