『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求する現代社会と私たちはどこに向かうのか?

現代は『ゼロリスクの安全・快適・清潔』を追求し、リスクある行動をして失敗すれば『自己責任・社会的コスト(迷惑・税金の無駄)』と批判されるが、本来人生も自然も不確実性との戯れの中に充実や美感がある。

「嫌い」「危ない」で消える学校の風景、過保護の代償

予定調和の決まりきったコースを進むだけの人生、自然の多様性や危険性から文明・科学のバリアで守られきった生活、新たな出会いや挑戦から遠ざけられて安全圏の中に留まる日常…それらは近代社会が理想としてきた『揺籃から墓場までの安全安心』の典型だが、人間が生きる意義・高揚を摩滅させてきたものでもある。

どんな行動や思考を選択しても、システムが予定した通りの結末に必ず行き着くように社会構造や外部環境が事前に調整されている世界、そこに作動する権力を『環境調整型権力』とミシェル・フーコーは呼んだ。環境調整型権力は人を死や失敗の危険から完全に守ろうとするが、結末の見えた物語を敢えて進みたいと思う人は減る。

成熟した近代国家に作動する権力は、それ以前の国家に有害な個人を処刑・監禁しようとする『殺す権力』ではなく、国家の財政や生産・消費のために人生を有効活用させようとする『生かす権力』である。だが、システムに事前設計された人生は、『生の保護・安心』と同時に『生の実感・可能性』を喪失させるリスクもある。