読書と恋愛:“教養・語彙・話題(ジャンル)”による相性もあるが、読書は基本的に孤独な営み

『読書をする人』と『読書をしない人』のどちらが異性に好かれるかは、相手が読書をする人か否かにかなり左右されるし、『読書で得た知識・話題・物語を相手に興味を持たせて聴かせる会話力』にも影響される。

世の中の人の過半は『本を習慣的には読まない人・細かな知識を欲さない人(蘊蓄・教養を深めない人)』であるから、『自分が読んでいるジャンル・本』について一方的に語っても、その内容や理論、知識について真剣に聴いてもらえる可能性は低い。

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何らかのジャンルや本について読み込んでいるからといって、それが恋愛上の魅力になるとは考えにくいし、『本・知識が嫌いな女性(話題を深く掘り下げるような会話を好まない女性)』も少なからずいるので、相手によるしケースバイケースだろう。

単純に外見・性格が好みの相手や収入が良い相手とどこかに楽しく遊びに出かけるだけで満足、ごちゃごちゃ小難しい話をするより買い物・レジャー・グルメのほうが良い、知識・教養などより結果としていくら稼ぐかの実利と生活のほうが大切だという女性も少なくないし(むしろ一般的な恋愛では多数派かもしれないし)、男女間における『話題・人間性の深み』というのは求められているようで求められていないといった曖昧かつ微妙なものである。

話題・人間性の深みや知的根拠へのこだわりを見せすぎることによって、『面倒臭い人間』として敬遠されることも多々ある。世渡りや男女関係では、少しシンプルで感情的でバカっぽく見せるくらいがちょうどいいし、『思考的・言語的』であるよりは『行動的・共感的』であるほうが『実利が多い・生活に役立つ』という意味で魅力的でもある。

記事にある読書は主に『小説・物語を読む人』のことであり、確かに一般的に読書というと村上春樹や村上龍、宮部みゆき、伊坂幸太郎、東野圭吾、森博嗣、湊かなえ、松岡圭祐、司馬遼太郎、宮城谷昌光などの有名作家の本(創作的な物語)を読む行為を指すことが多い。

『あの人の本を読んだことある?・どの作品を読んでどんな感想を持った?・あの作家の作風や登場人物は好き?あの事件の犯人やトリックについてどう思う?ミステリーと歴史小説ではどっちが好き?』などの話題が、一般的な読書の趣味を巡る会話の典型ではある。

他人との会話のネタとして読書趣味を活用するなら、こういった大勢の人が読んでいそうな作家・作品の話題だけで十分と言えるし、大半の人はベストセラーの小説も読んでいないので、(読む予定がない人に)分かりやすく物語のあらましを語れるだけでも面白いネタにはなる。

教養主義者(ビルドゥングス)やビブリオマニアと呼ばれる水準の読書家になると、そういった有名作家の小説・物語も読むが、書き手・ジャンル・レーベルの区別がなくなり、『文字化・理論化された世界の総体を知るための終わりなき読書』という異なる次元の読書の方法(書物の渉猟・知と人格の相互作用)になってくる。

読書によって啓蒙的な人格の向上と思想の完成を目指す人文的・科学的な教養主義(知性・理性・情報の積み上げによる人格構築主義)は、既に20世紀後半には『実務インテリ主義・企業経済社会・プラグマティズム・感覚的な世俗主義・アカデミズムの経済化・読書人が現実にコミットしようとしたマルクス主義の挫折』によって死んだとも言われる。

だが、かつての教養主義の伝統を引き継ぐ歴史的な古典・知性・思想の累積として、岩波文庫や講談社学術文庫、ちくま学芸文庫などのレーベルは今もあり、そういった書物を読み理解することによって『知性主義の共通認識・人格基盤』を形成するといった抽象的な読書の営み(学び語る読書の積み上げで築かれると期待される知的・心的な何か)もある。

世界の理解や人格の向上、意識(精神)の啓発、歴史的な自己定位まで含む読書家は蔵書数・読書数が膨大であるだけではなく、『人文学の教養主義の実践』や『世界や人間を一般的あるいは論理的に理解する学習』も織り込まれている。

だが、こういったレベルの読書人としてのあり方や読んだ本の感想は、通常の会話の中に出しても理解・共感して貰うことは困難だ。

釈迦の対機説法ではないが『相手の興味関心・求めている話の深みやレベル』に合わせて、どんな本についてどのくらいの詳しさ・深さで語るかを調整できる人でないと、異性とのコミュニケーション上のメリットはないし、ただ楽しく話を合わせたいなら『相手の読んでいる本』を読んだほうが手っ取り早いだろう。

『教養主義・知の共通基盤における共感や共鳴』ができる男女というのは、『私の世界の言語的・思想的な広がりとの共有領域』が広いという意味では、人格水準・ライフワーク水準での相性が良いとも言える。だが、本や知識を介した異性との出会いというのは、テキストベースでやり合うネットはともかく音声ベースの実社会ではそうそうないだろう。

リアルタイムの会話では知っていることや語りたいことを詳細かつ網羅的に話す機会がほとんどないし、結構単純な内容しかやり取りしていないものである。

男女関係において、読書が趣味な人、物事や物語について良く知っている人、事象・事物の仕組みについて深いレベルで語れる人のほうがモテるかというとそんなことはないだろう。

『相手や状況に合わせた話術・興味と話題の引き出しの多さ・知性による人間的魅力の積み増し・学歴や知識が生み出す経済的な実利性』とセットになれば、そういった読書趣味や理性・感性、世界観を持つ女性に対して一定のアピール要素になるメリットくらいはあるかもしれないが、(読書・知識・教養趣味そのものにさして重点を置かない女性も数的には多い以上)読書と恋愛はそもそも有意な相関関係にはない。

読書は基本的に、他者がいなくてもできるという意味で自己完結的で孤独な営みである。労働や他者といった社会的営為から人間を遠ざけたり知的に傲慢にする可能性もあるということから、一昔前の身体を動かしてなんぼの農村社会では『自分ひとりの世界に閉じこもる読書・本が忌み嫌われる文化』が残っていたりもしたほどであり、読書という事象は多面的な相貌を持っている。

読書人は『暇・退屈』から遠いが、集中して読書をしている人には他人は話しかけにくいものであり、『他者が気軽に干渉する隙・暇』を自ら閉ざしてしまう恐れもある。

『読書をする人・頭を使う人』と『読書をしない人・頭を使わない人』のどちらが良いか、『スポーツをする人・身体を使う人』と『スポーツをしない人・身体を使わない人』のどちらが良いか、『謹厳実直な生真面目な人』と『厳しさがなくて遊び好きな人』のどちらが良いかというのは判断が難しい。

『アウトドア・身体の活用・他者との行為・真面目さ』も『インドア・脳の活用・自分ひとりの行為・気軽さ』もどちらも好きという人も多い気がするが(僕自身もどちらも好きなのだが)、まぁ、相手の趣味嗜好や価値観、生き方によってどういった自分の側面を強調して見せるかを工夫することが恋愛上のベネフィットにはなるのだろう。

読書が好きな人と読書が嫌いな人との話題や価値観の相性は良くない可能性もあるが、『相手の話題や内面に興味関心を持てるか否か・相手の趣味や生き方を全否定せずにそれぞれの世界を尊重できるか』によって、身体重視でも頭脳重視でも、教養重視でも実利重視でもどちらでも対応可能といえば対応可能なはずである。