ファストフードや警備員、GSのスタッフの時給が1500円や2000円であれば、先進国の経済社会から『低賃金労働ゆえの悩み・不満』は一掃されるだろうが、そうはならない理由は『労働生産性』というキーワードで語られる資本主義経済の労働再生産と学歴・資格の仕組みにある。
一流とされる大企業に勤める大卒・院卒の総合職や専門職(研究職)のボーナスも含めたサラリーの水準は、概ね時給3000~5000円の水準にあるとされる。
「マックジョブに時給1500円」要求で議論 「これじゃ生活できない」「金額に見合う仕事なのか」
これは1000円以下のアルバイトの時給と比較すれば破格に高いようにも思えるが、『難易度や倍率の高い入試・入社のスクリーニング』をくぐり抜けたことによって得ることが期待できる報酬、『仕事そのものの責任の重さ・知的な高度さ・技術的な難しさ・必要資格の取得コスト』などを織り込んだ所得格差として解釈されているものである。
『能力や資格のスクリーニングがない・職業キャリアの積み上げを問わない・やる気だけですぐにでも取り組める』という型の仕事は、誰でも代替しやすい作業型のルーティンワークであるため、賃金水準が低めに設定されやすく機械化・自動化によってリストラされやすくなる傾向がある。
記事に『時給1500円以上の仕事を探せば良いだけ』『能力・資格を問わずすべての労働者に行き渡るだけの時給1500円以上の仕事の供給がない』というやり取りがあるが、厳密には資本主義経済では『今日働いた労働者が明日もまた働かなければいけない労働再生産を促す賃金水準』が設定されるので、高度な知識や技術、資格を要さない仕事に対しては、『楽に日常生活をまかなえる給与水準』を敢えて設定しないというところがある。
現代のグローバル経済の生産力であれば、先進国で働く人たち全員が『最低限の日常生活』を楽にこなすだけの給与や貨幣価値(物価)の水準を設定することはシミュレーション上は不可能ではない。だが、『最低限の日常生活の負担感・コスト感』が弱くなれば、敢えて高学歴・難関資格を取得して更に正規労働のハードワークを何十年間も継続しなければならないというモチベーション(労働再生産の基本条件としての経済的必要性)が弱まる恐れがある。
例えば、物価が同じと仮定して、ファストフードなどアルバイトの最低賃金を時給2000円にする代わりに、アッパー層の大卒・院卒の年収の時給換算のほうも時給6000円以上にまで引き上げるとすると、6時間のアルバイトでも2000×6=12000円の日給が稼げて、20日もバイトに出勤すれば24万円の月給を得て普通に日常生活を送るには何ら困らなくなる。
夫婦二人で6時間のバイトを20日間すれば月給48万円になり、ある程度余裕のある家庭生活を遅れて、ワークライフバランスも理想的な形に近づくわけだが、こうなるとフルタイムで朝から晩まで高度な知識・技術を駆使して働いている人たち(残業代が支払われないホワイトカラー・エグゼンプションも適用されるような人たち)の『余暇を含む人生全体の満足度』が低まる恐れが強まる。
確かに、時給6000円で8時間働けば日給48000円、20日出勤でも96万円で年収1000万円以上のクラスに相当するが、実際はもっと多くの出勤日数や長時間勤務を強いられて、『自分が自由にできる時間・活動』が極めて少ないというハードワーカーのサラリーパーソンは多いわけである。
資本主義の原動力の一つは『賃金と消費の水準の向上』であるが、その向上の実感は『消費(モノ・サービス)を通した他者との差異・経済階層の分化』によって得られていた。
しかし、近年は情報革命の進展や体験型の人生の満足度基準によって、『所得・資産の大小』だけではなく『時間・活動の自由度の高低』も重要視されるようになり、いくら高給が稼げても朝から晩まで強いストレスにさらされて働き続けるようなワークスタイルが好まれにくくなっている。
1日6時間のそれほど高度な技術や責任を問われない仕事で、週休3日に近い休みがあって月給24万円というのは、その人の価値観や生き方によっては『ハードワーカーの月給50万円』以上の価値を持つようになる。
高給の仕事に行き着くまでのハードルの高さや仕事内容の難しさ・責任なども合わせて考えると、逆に『高所得層の労働再生産の効率性』が低下する恐れが出てくる。
『消費(モノのステータス)を通した他者との差異や自己顕示』への興味関心が過去よりも薄らいでいる現代では、『最低限の日常生活のコスト感の引き下げ(それほど必死にならなくても誰でも普通に暮らすくらいは簡単にできる賃金水準)』は最低賃金と生活保護を比較して生活保護のほうがマシというような考え方が、正規雇用と非正規雇用を比較して非正規雇用のほうがマシという考え方にスライドする可能性を孕んでいる。
それを人類が築いてきた資本主義経済社会の可能性と見るか危険性と見るかは、その人が拠って立つスタンスや価値観によって異なってくるが、途上国まで含んだ世界全体の資源の配分ルールを考えるときには、誰もが短時間の簡単な労働だけで簡単に生活コストくらいはまかなえる社会はもう少し先の未来でしか実現が難しいだろう。