生理的嫌悪を感じない程度の顔の好みは誰しもあるが、顔に過度にこだわるのは“ロマンチスト(美・性の陶酔)”か“見栄っ張り(知人に見せたい)”の可能性が高い。性格・趣味・生き方も合うなら外見は良い方が良いが自らの価値に近しい相手になるのが大半。
美人やイケメンは『自分がその人を好きと思う心理』だけでなく『他者・社会が“良い女(良い男)”と評価・羨望すると想像する心理』によってパートナーである自己価値も高められるような錯覚をもたらす。顔へのこだわりはその意味で他人から異性選択をどう見られるか気にする見栄張り(虎の威を借る狐)の傾向はあるかも。
自分の容姿に劣等コンプレックスを抱えている人でも、『お前の奥さんは美人だな(あなたの旦那さんはかっこいいね)』と言われると、二人一組で価値判断されると解釈する人は、それで随分コンプレックスが解消し前向きになったりもするから一概に悪い事ではない。恋愛・結婚からそういった劣等感の呪縛解除を得る人もいる。
結婚できないで悩んでいる女性(男性)にしても、特別に扶養されなければ困るという人を除けば、『相手のいない孤独感・心細さ』もあるだろうが、『誰からも愛されない淋しい人と他者に見られているかもしれない想像』が悩みの核にある事も多い。社会的要素も持つ異性関係は『他者の目線とその想像』の影響もある。
美人だとかイケメンだとかを抜きにしても、人によっては恋愛・結婚・子供は、『自分を他とは異なる特別な存在として承認してくれること・他の相手に行かずに継続的な関係を約束してくれる他者がいること』によって、それ以前の自分の劣等感・不全感・虚無主義の呪縛を解除する効果を持ち得るものではある。
極端なメンクイは恋愛・性愛を重視するロマンチストというか、『一緒に生活や子育てをするパートナー』を求めているのではなく『美しい客体としての相手をずっと見ていたい陶酔・賛美・快楽の欲求』に捕われ過ぎている人かも。倫理的問題を除けば、苦楽を共有する配偶者ではなく楽しい事だけする愛人を見る目線に近い。
相手の顔や表情、身体を眺めているだけ見つめ合っているだけで幸せ・飽きないというようなロマンティックラブは、近代では消費文明を煽る意味合いもあり『結婚相手の前提』のようにされたが、現実はある程度経験があってもそこまで恍惚的に見つめたい相手との恋愛はかなり稀でそれを好きな証拠と思えば滅多とない話である。
現代は『男性原理的な力の時代』から『女性原理的な美の時代』への転換の面も持つが、『生活・育児における男女の相互扶助』を結婚の目的とする昔ながらの価値観が変質し、『自分自身が知覚・活動・承認の面でももっと楽しみたいという人』が増えた影響もある。生活や育児を無難にこなす事以上のプラスαの要求の肥大。
現代社会の行き着く先の心的態度の一つは『普通の生活くらい誰でもできて当たり前』というギリシャ的な万民貴族主義やベーシックインカム的なシステムである。結婚で顔だけを優先する人もまた『生活はできて当然(最低限の生活の為の努力を評価しないリアルを舐めた態度)』から生まれる現代の傲慢・贅沢の面はある。
顔・スタイル・性を重視する人は、配偶者と愛人の二元論や不倫的な心理に誘惑されやすいが、それは『衣食住にまつわる最低限の生活はできて当たり前でそこに興味関心が薄い可能性』があるからで、配偶者に快適な生活環境を整えて貰っても、『平凡な生活の外』に美人の絡む知覚・性の快楽を求めたい欲が別にあるからである。