いじめの話題に返答しない担任の事なかれ主義が間接的に自殺を後押ししたが、自殺するほど苦しい状況で学校に相談してもダメなら休学・転校を考えるべきか。無抵抗な相手に、執拗に虐待を続ける加害者心理も病的だ。
グループ行動の多い小中学生くらいでは『仲間関係から外され孤立する』だけでも学校に行きづらくなるが、『会えば必ず暴力・侮辱を受ける』といういじめの状況は耐えがたい苦痛や自己嫌悪を伴う。いじめの被害者になりにくい方法があればいいが、結局は加害者になり得る気質・性格を持った人や集団がいるか否かにも拠る。
同世代の思春期の若者が集まれば必ずいじめは起こる面もあるが、『学力・意識・目的・興味が玉石混交な状態』であるほどいじめ(暴力的な上下関係=擬似的な身分)は起こりやすい。中高では学校に来る目的が明確な進学校ほど、無抵抗そうな相手を劣位に置き貶める(嫌がる行為で構う)型のいじめは起こりにくい感じはある。
いじめは、被害者に構わなければならない必要があるわけでもないのに、『自分と関わりたくないと思っている相手に近づいて無理やり暴力で構い続ける』という“自分にやりたい事がない人達”による虚しい犯罪的行為ではある。個人主義の思想・生き方の人にとっては、他に面白い事ややるべき事は無数にあるのに……とは思う。
好きでもない相手に無理やり暴力・暴言で構い続けて不幸な結果を招くより、普通に友達同士で出かけたり遊んだり、学校の可愛い子に話しかけたりでもするほうがよほど生産的で楽しい時間になるが、『精神的な抑圧・家庭環境の問題・自己アイデンティティ拡散』があると他人の苦しみや惨めさ=快楽的な自己肯定になりやすい。
大人になると『相手から話したくない・関係を持ちたくない』と返事をされれば、それ以上しつこく構い続けてはいけないのがマナー・常識だが、小中学生やクラス制の問題は『不愉快な形で構おうとしてくる相手』に対して関わらないで欲しいという返答が難しい事だろう。普通は、話して欲しい人のほうが気遣いをすべきだがw
子供時代は暴力・虚勢・数が強く、ロジックは通用しにくいので言葉遊びだが、通常は『構ってほしい人(無視されたくない人)=いじめの加害者』と『構ってほしくない人(相手がどんな反応をしてもどうでもいい人)=いじめの被害者』だと後者が立場は強い。
『そんなに俺と関わりたいの?好きなのか?』の返しのユーモラスさは、いじめのナンセンスさと加害者たちの『他人に構わずにはいられない弱さ・虚しさ(自分自身の内面にやるべきことや考えるべきことがないこと)』を象徴している。