アジア太平洋戦争を振り返った『安倍談話』についての感想:なぜ国・民族で排他的にいがみあうのか?

安倍談話の内容は『反論可能性を予期した完全性』を担保したもので、思想的・政治的なバイアスを極力排除した穏当なものだが、安倍首相本人の今までの歴史観・抑止力と安保情勢の認識が反映されておらず建前的な装いもある。

安倍首相の戦後70年談話全文

残念なのは、安倍談話を読んでの一部の国民の『党派的・イデオロギー的な反応』だろう。『この談話に同意できなければ日本人ではない・日本から出て行け』というムラ社会的な排他性は、先のアジア太平洋戦争において『私は戦争反対であると言えない全体主義(精神総動員)の空気』を醸成する群集心理の発露・踏み絵だった。

『私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』というのは、『現代的な個人主義の発想』でありもっともだが、それを言っている安倍首相自身が『復古的(反個人主義的)な集団帰属・規範主義の責任ある日本人』を理想的な日本人の原型として持ち上げているのは皮肉だ。

ある国に所属している同じ国民であっても、『国家・民族・歴史と自我同一化する個人』もいればそうでない個人もいるというのが、『過去の歴史的責任の世代間継承』を切断する社会認識のとっかかりになる。なぜ国家単位で親・祖父母の世代の戦争の罪を子孫が問われるのか、世代間の価値・歴史の継承が推測されるからである。

民族主義の右派の感受性に置き換えると、ある韓国人が『私は韓国人ですが、韓国政府の歴史認識や右翼的な日本への民族的嫌悪とは関わりがなく、私は私として日本人と仲良くやっていきたいと思っています』と語った時に、どう思うかということが『過去の戦争・歴史の責任の世代間継承』と深く関わっているのだ。

とにかく韓国のすべてが気に入らない右翼なら、『そうはいってもお前は日本人ではなく韓国人ではないか、親世代の価値観や教育で多少は日本への悪感情を持っているはずで信用できない』という反応をする可能性も高い。それと同じ反応やメンタリティが日本人全員の責任を非難する韓国の右翼にもあり、子孫も巻き込まれる。

シニカルな話だが、どの国にも自国の歴史や民族性を極端に賞賛して、過去に対立してきた外国の歴史や民族性を強く貶めるような人がいて、それが悪い意味でのサンプリング効果となり、『世代交代しても○○人の根にある本質は変わらない・信用したら裏切られる』の世代を超えた相互不信や歴史的怨恨が文化的に再生産される。

世代を超えた歴史的・道義的非難の継承性は、確かに現代の先進国の基準で考えれば、理不尽であり納得のいかないものであるが、『親子間・世代間の怨恨や復讐感情の継承性』が完全に無くなっていることを立証する事は困難だ。中韓の反日教育でも日本の改憲でも、親は親・子は子で価値観が切断されていない可能性を示唆する。

この問題を解決するためには、国民の大多数が『国家・民族・歴史の価値観や恩讐の継承性』から距離を置くようになっていて、『私は私・あなたはあなたの個人主義』や『過去は過去・現在は現在でこれからが大事の未来志向』や『自国民も外国人も生命の価値は等しいの平等主義』が本音の部分で根付かないと無理だろう。

しかし残念ながら、人類の脳はそういった『完全なフラット志向・非歴史的な現在主義・集団単位の敵味方の区別を弱める個人主義』には自然に適応できるようにはなっておらず、相当な意識的な啓発教育か異文化コミュニケーションを経由した経験的な転回などがないと、『内と外を区別し歴史的価値を継承する意識主体』になる。

○自民党の女性議員の民族右翼的な傾向性

山谷えり子・稲田朋美・高市早苗・有村治子など自民党の大物女性議員には、民族主義的な右派の人が多く、戦争解釈や東京裁判史観の修正も打ち出す。現代の女性の大半はノンポリの個人主義だが、戦中の『国防婦人会・愛国婦人会』など、集団的役割のバイアスがかかると女性もまた家族意識拡大の政治性・党派性に傾きやすい一面はある。

自民党の女性議員の場合は、学力・職業エリートの自意識が『国家の権威・尊厳』とリンクしているので特殊だが、女性の政治性・党派性の分かりやすい典型は『家族が関与する町内会・PTA・運動会・ボランティア等への献身的参加』の一面であり、割烹着で銃後を支えた愛国婦人会の精神性も社会参加・貢献意識に根本があった。

女性でコワモテな右翼思想・国家主義的な権威重視を前面に出す人は、現代では多数派ではなく、現代の女性の多くは戦争反対・家族主義・人権尊重のリベラルか歴史の無関心派ではある。ただ『大きな集団で重要な役割・使命・物語を与えられる高揚』はそれを意識してこなかった女性(男性)ほど離れがたい依存性も併せ持つ。

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