“元少年A(酒鬼薔薇聖斗)”を名乗る人物のサイト開設とこの人物のパーソナリティーのどうしようもなさ

『神戸児童連続殺傷事件』を起こした犯人かどうかの真偽は不明だが、『元少年Aの犯行・心理・嗜好・読書歴』と共通していそうな要素を感じるグロテスクかつナルシスティックなコンテンツが掲載されたサイトではある。

神戸連続殺傷事件「元少年A」名乗るサイト開設 自己紹介やイラストなど掲載

作者が偽物だとしても、相当この事件と加害者の心理・履歴・著作などに興味のある人物なのだろうか。こういった思弁的・言語的な自己陶酔(自己顕示)に耽溺していく型の文章には個人ごとの癖や特徴がでやすいから、元少年Aの『絶歌』を読んだ人であれば(私は未読だが)文書の類似性を何となく判断はできるのかもしれない。

本人だと仮定すると、『存在の耐えられない透明さ』というサイトのタイトルが、少年時代に起こした事件の犯行声明文の自己規定や犯罪の動機と重なってくるが、酒鬼薔薇聖斗と名乗っていた加害者は『他人から自分の存在が透明になっていて見えていない(この世界に自分が実在していないという透明な存在感覚)』によって殺人事件を犯したのだと告白している。

その透明な存在感覚や目立つ騒ぎを起こすことで承認されたい自己顕示欲(人格の演技性)が今もまったく変わっていないのであれば、『精神病理・反社会性パーソナリティーの根本部分』は矯正することができなかったとも言える。

犯行声明文で元少年Aは『ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として、認めて頂きたいのである』と書いているが、元少年Aの自己の存在感や承認欲求の異常な偏りは、『猟奇的・劇場的な犯罪行為を介して“あなた達”と呼ぶ“無関係な第三者(世間一般の仮定的他者)”に自分の存在を押し付けるように見せようとしていること』である。

自己存在や外部世界のリアリティが希薄化して自分が実際に生きているような実感がなくなるというのは、精神病理としては解離性障害の中の離人症性障害とか解離性健忘とかになってくるのだろうが、元少年Aの矯正困難な反社会性に影響を与えているのは『透明な存在という自己規定を生んだ成育環境・親子関係・脳機能・遺伝要因・精神疾患の混合』なのだろう。

難しく考えればそういった複雑な混合要因や心理状態(精神・人格の異常性)を推測することはできるが、『行為の猟奇性・残虐性』と比較すれば動機部分は意外に幼児的なシンプルさがあるというか、率直に『もっと自分を見てほしい・無条件に愛してほしい・優れていると認めてほしい』という本人がサイトでいっているような『胎児回帰願望(赤ちゃんのような幼児退行の無条件の承認と母親的な対象喪失・対象回復衝動)』に過ぎないとも言える。

酒鬼薔薇は『それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない』と書いたが、これは精神分析の自我防衛機制でいう『置き換え』が働いている可能性が高い。酒鬼薔薇が『学校・義務教育を憎悪すべき特段の理由』があったという事実はほとんど出ておらず、この置き換えは英単語のつづりが間違っていたShooll killerだったかにも反映されている。

透明な存在であるボクを造り出したのは普通に考えれば『義務教育』ではなく『親(特に母親)』であると推測されるが、元少年Aはサイトの自画像と見られる写真の文章で『あぁ、自然よ母よ ボクを一人立ちにさせた広大な母よ ボクから目を離さないで守る事をせよ 常に母の気魄をボクに充たせよ』と、母性的な見守り・愛情への今の年齢に似つかわしくない執着心・甘えの欲求を覗かせながらも、プライドの現れかその幼児性を軽く隠蔽するかのように『自然』という直接の母から離れる抽象的キーワードを挟んだりしている。

端的には、幼少期段階に固着しているマザーコンプレックスのねじれ・歪み(具体的にどのような母子関係だったか子供時代の家庭・親・心境を本人がどのように見ていたと語っているかは知らないがその時代に自分が透明な存在のように感じる何らかの原体験があったのだろう)を、事件前から延々と長くひきずっている可能性が強い。

自己表象として、みんなから気持ち悪いと思われて嫌悪・拒絶される生物だと語る『ナメクジ』をあてがったり、読書のレビューとして『パリ人肉食殺人事件』の佐川一政を取り上げて文学的・心理分析的な解説や感想(猟奇殺人を犯した後に文学者として生きた佐川への憧れ)を長々と展開し、自分の存在・心理状態と重ね合わせて投影的に自己同一化したりしているが、『普通に生きていては満たされない自己顕示欲・自己陶酔の衝動』が再び強まっているのだろうか。

『絶歌の出版』にしても『ウェブサイトの開設』にしても、そのコンテンツの内容が犯罪の反省・後悔・謝罪とは無関係であり、被害者(遺族)の苦しみや怒り、絶望にも配慮されていない自己陶酔的なものであることから、元少年Aに対する社会一般の道徳的非難や凶悪犯罪者の更生不能の感覚、あるいは少年法反対の世論も強まる可能性がある。

『リアリティを持つ他者が存在しない世界(自分が透明である以上に他人が透明であるのではないか)』に生きているように見える元少年Aの再犯リスクについては分からない。

佐川一政とその知性にやたら心酔・共感していて殺人後の文学者的(自己表現者的)な生き方に憧れているようだから、あるいは本当の意味での殺人の禁忌・罪悪や被害者に対する謝罪(自分の行為の後悔)の感情は分からないままだとしても、『実際の犯罪』には手を染めないかもしれない。

しかし、過去の重大犯罪を他人事のようにして終わらせ、自分の心の闇・感性の特殊性を自己分析しながらあれこれ好きなように表現して周囲の注意・関心を集めて満足しようとする生き方(それが法律に違反するものではなくても)への一般社会の非難・怒りは強まらざるを得ないだろう。

一方で、『誰からも特別な存在として見られない生き方』にどうしても納得できないという自己愛的・解離的な精神構造そのものに元少年Aの治りにくさ(他人・社会のリアリティがないというどうしようもなさ)があるのだろうし、幼少期から『まっとうな方向で努力・工夫をして人から見てもらえる・認められるという生き方』を大きく踏み外したままの段階に固着・停滞しているのだろう。

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