ペットの面倒を最期まで責任持って見ることさえ大変だが、身体・判断が弱まり意思疎通も困難な高齢者を最期まで世話するのも実に大変な仕事で、自宅・施設での高齢者虐待問題の深刻化にどう対応できるか。
何もできない赤ちゃんは次第に「できること・知っていること」が増え、世話をする親の手を離れていく事に希望と寂しさがある。人は一定の年を超えると赤ちゃん返りするとも言われる。「できなくなる・分からなくなる」の喪失プロセスは、必然に「人に頼らなければならない介護」を生むが、介護とビジネスの相性は良くない。
3名の後期高齢者が不審死を遂げた事件(複数の虐待・窃盗・横領など含む事件)は、特養より自己負担の高い有料老人ホームで起こったが、料金の高さは高齢者介護の安全性や質の良さを担保しない。特に認知症・寝たきりで言語的な意思表示もできない高齢者の介護は、現場の空気・倫理と担当介護士の士気・感情に左右される。
確かに、知能と言語機能が維持されていてお金がある高齢者ならば、豪華な設備とスタッフの高級有料老人ホームに入れるが、全く身寄りがいない場合には、「自分の身体・頭脳の健康状態」に介護の丁寧さのレベルが影響を受ける可能性がある。数億円以上の資産があっても認知症で後見のいない高齢者は社会的弱者に他ならない。
自分が誰かも分からないほど脳機能(認知機能)が大きく衰退したり、人と相対して意思疎通できる人格機能が崩壊してしまうというのは、シビアな「絶対的弱者(意志的な抵抗能力喪失)」の立場になる事だから、家族援助・介護業・自然死・尊厳死という分岐も問われ得る。高齢化社会と若さ・健康・有能の価値前面化のアポリアである。
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