精神医学の精神病理学・診断学において何に注目が集まるのかには一定のトレンドがあり、そのトレンドの形成には「医学会の研究対象・医学論文の発表本数」と「製薬業界のマーケティング・保険診療の利益構造」が深く関わっているとも言われる。
少し前にはうつ病(気分障害)が精神医学において最も注目される精神疾患であったが、近年はこの記事にあるADHD、ADDやアスペルガー障害を含めた「広汎性発達障害(PDD)」に言及する精神科医や著作・論文が増えている。
■ケアレスミスが多い人はもしかして…「大人のADHD」への適切な対応とは
特にADHDやADDについては、かつては「子供にしか診断されない発達障害の一種」だったのだが、大人になってからも「子供時代に見過ごされていたADHD、ADD」が見つかって遡及的な診断・治療を行うこともできるという観点が強調されるようになり、「大人のADHD」と銘打った著作の発行も増えているようである。
これにより、現時点における「社会不適応(物事・仕事・関係が上手くいかない,計画的に物事が進められず実行を担う思考が展開しない,注意力と思考力が低下してミスが多い)」の原因を説明可能な発達障害概念として、ADHD、ADDが注目を集めることにもなった。
ちなみに、かつては「ADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder)」という幼児期・児童期に診断するための概念しかなかったのだが、大人のADHDにはADHDにあるべき「不注意・多動性・衝動性(刺激過敏性・攻撃性)」の三大特徴のうち、「多動性と衝動性」があまり見られないということから、不注意(脳の実行統制機能の障害)だけの「ADD(Attention Deficit Disorder)」という概念も使われる頻度が多くなっている。
「子供のADHD」と「大人のADD(大人のADDも先天的な脳機能の成熟障害だから幼少期にはADHDのエピソードがなければならないとされる)」を比較すると、子供時代に診断されていない大人のADDは非常にわかりにくいというか、多動性と衝動性がなければより「目に見えない発達障害としての側面」が強くなってしまう。
子供のADHDの鑑別診断に大きな役割を果たすのは、「授業中も話を聞けずに教室内をうろうろする,授業中に他の生徒にちょっかいを出したりするという多動性」や「周囲を見ることができず言いたい時に言いたいことをいう,ルールを守れずに自分勝手に反射的な行動をするという衝動性」であり、非ADHDの子供と比較した場合の違いが極めて顕著で、いわゆる「クラスの問題児・落ち着きのない子(話が聞けずうろうろしている子)」として教師や他の子供から認識されていることが多いのである。
不注意にしても、その子供だけ机の周りに本や道具がめちゃくちゃに散乱していたり、ランドセルや手提げ、縦笛などが教室のいろんな場所に放置されていたり、毎日のように教科書や体操服を忘れてきたり、何度注意しても同じミスや忘れ物を繰り返し続けたり、学習障害と併発する形で小学校低学年(読み書き計算の基礎の基礎)からケアレスミスが多くて異常に低い点数を取り続けたりすることなどで示される。
大人のADDの場合には、子供時代から「不注意・多動性・衝動性」の3大特徴が見られていた人を除いては、「大人になって仕事ができなかったりケアレスミスが多かったり約束(スケジュール)が守れなかったり掃除・片付けができなかったり計画的な行動の手順を踏めなかったりするという悩み事や困っている事」が先にあって、そこでADHDやADDの情報に接してから「もしかしたら自分はADHD・ADDなのではないか」と思うことが多い。
子供時代のADHDのエピソードがあるにしても、「誰もが認める問題行動」として記憶が共有されていることも少なく、「人に言ったことはないけれど内面でずっと困って悩んでいた」という自己申告に依拠する部分が大きい。
なので、客観的な鑑別診断というのは、医師の信念・方針によって(大人のADDの存在に対して積極的に肯定して診断する信念の医師もいればそうではない大人のADDは殆どないと考えている医師もいる)変わる可能性もあるといえばあるわけである。
誰もが多かれ少なかれ、そういった「注意力・思考力・実行力(計画遂行力)の不十分さに対する悩み」は持っているわけだが、大人のADDの人は、その度合いが平均的な高次脳機能を持つ人と比べると著しく大きく、仕事や社会生活、人間関係に実際的な障害・不利益が多く生じているということで鑑別される。
自分の興味関心のあることにだけ注意力や集中力を発揮でき、興味関心のないことに対しては注意力を欠いてやる気も乏しいというADDの過集中の特徴なども、誰にでも当てはまるといえば当てはまる特徴であり、「自分が興味関心のないこと・やりたくないが義務的にやらなければならないこと」に対してはやる気が起こらずに消極的態度や注意散漫(違うことに意識がそれる)になりがちな人は多いだろう。
ADDの本体は前頭葉と海馬が関係する「高次脳機能障害・脳の覚醒水準の低下」と推測されている。高次脳機能というのは「人間の理性的・知的・創造的な思考と行動のすべてを包摂する機能」なので、高次脳機能障害というのは脳の特定部位が損傷していない限りは、かなりつかみどころのない「人間が潜在的に持っているはずの高度な注意・思考・計画に基づく実行機能の障害」として定義するしかないことになる。
平たく言えば、「各種の目的・課題を極端に人よりも上手く実行することができない障害」というのがADHD、ADDなのだが、「物事や目標を計画した通りに上手く実行(達成)できる人は実際にはほとんどいないということ」を考えると、ADHDというのは白か黒か(あてはまるかあてはまらないか)の二分法で診断できる発達障害ではない。
自閉症の特徴の段階的・連続的なグラデーション(濃淡・強弱)を想定する「自閉症スペクトラム(自閉症の連続体)」と同じように、目的や課題を計画的に実行することができないという脳機能低下の特徴の段階的・連続的なグラデーションがADHD、ADDにもあると考えるのが妥当なのだろう。
「ADDスペクトラム」には、注意力・思考力・実行力に全く問題がなくケアレスミスもなく、頭の中に描いたビジョンや計画手順をスムーズに展開していける人をトップにして、注意力・思考力・実行力が極端に劣っていてケアレスミスを連発し、頭の中にあるビジョンも計画手順もすぐに忘れてしまうような人までの、無限の連続的段階が存在するというモデルだと分かりやすい。
一方、高次脳機能に個人差・能力の高低があるというのは常識的な見方であり、ADDの診断基準を満たす人はその高次脳機能が「社会的・職業的に要請される最低許容水準よりも低い人」というふうに見ることはできる。
しかしここで気をつけたいのは、ADHDやADDというのは精々がここ数十年の間に出てきた極めて新しい(歴史の浅い)概念のフレームワークに過ぎず、ADHD(ADD)であるかないかの区別の基準も「近代的・都市的な学習課題・仕事内容・価値観・ライフスタイル」に偏っていて、地球全体や人類史の流れから見ると「過度に高次脳機能を重視した基準」ではあるのだ。
例えば、平均的な日本人の几帳面さや注意深さからすれば、東南アジアや中東の人たちでさえ「注意力が足りない時間を厳守できない約束を守らない、いい加減な人たちが多いという印象」は免れない(日本国内でも沖縄県民の南方的気質は几帳面さ・規範性に欠けるという批判も少なからずあった)のであり、つい10~20年前まで中国人の工場労働者は出勤時間を守れないので、実際の始業時間よりも30分以上は早い時間を伝えていたほうがいいなどと言われたものだった。
椅子に長時間座って、私語を一切せずに黙って講師の話を聴き続ける、あるいは決められた時間に遅れずに確実に出社する(電車もダイヤ通りにぴったりと計画的に運行される)、簡単な文字の筆記や計算において間違いがまずないというのは、現代の日本人からすればさほど難しい「実行機能の課題」ではなく「社会人としての常識」とされるものである。
だが、こういった計画・思考・衝動制御の高次脳機能一つとっても、時代と地域、民族が違えば「そこまでガチガチに几帳面にやらなくても・日が落ちるまでにはそっちに行くから(3~5時間くらいの範囲で行くと考えておいてくれ、もしかしたら行かないかもしれない)・草原でのんびり牛追いしてるほうが教室でじっとしてるより最高だぜ・ずっとみんなで黙って座っているなんて拷問だ・間に合うかどうかやってはみるがインシャアラーだ(私も努力するけれど結果は神のみぞ知るだ)」というほうが優勢な価値観になっていることもしばしばなのである。
人類の仕事内容の歴史プロセスを振り返れば、現代の「高度な知的作業・思考能力・記憶能力・長期計画」を必要とする専門性や難易度の高い仕事(インテリジェンス・ワーク)などというのは「例外中の例外」である。
そのため、大半の人にとって現代のハイエンドな仕事というのは「脳に対する負荷」が極めて大きく、ストレスや疲労、プレッシャーを感じても当たり前ということになる。ADDが脳の器質的障害であるならば、「日本人の約10%の人の脳は近代的労働システム(高い注意力・思考力を要する学習と仕事)に十分適応できるだけの器質的特徴を備えていない+進化的時間軸においてもすべての人間に近代的労働システムに楽に適応できる脳の遺伝形質が広まりきったとはいえない」と言い換えることもできるだろう。
つい100~200年くらい前には、大多数の人類の構成員はそんなに高度な知的学習や知識労働を死ぬまでしなかったし(そんな教育制度も知識体系もそもそもないのだから)、細かい時間割や予定表に従った管理される労働にも従事していなかった。
だから、(極端な知的障害・脳性麻痺・身体障害などを除けば)不注意や衝動性、多動性の問題のみによって人生・仕事に大きな不利益を蒙ることもなかったのである。
「農業漁業・牧畜・手工業・武芸(戦争)・商売(モノの売買)」などの前近代的な高次脳機能を強く要請しない仕事であれば、ADDであってもなくても大半の人が身分に従った仕事(ルーティン)にそれほど困難を感じずに適応しやすかったのである。むしろ、高次脳機能より身体的な健康や体力があるかないかのほうが、仕事への適応度を大きく左右したことだろう。
過去の人類の99%以上はそこまで厳密かつ緻密な高次脳機能の酷使をやってきていないため、ある意味では現代の地球的視野で考えた場合にも、「潜在的な高次脳機能の高低」には相当な個人差(できることとできないことの差)があってもおかしくないのであり、大人のADHD、ADDの問題は「特異的時代である近代(現代)の学習・労働・管理に対する適応能力の低さ」に由来しているところがある。
近代(現代)の先進国で要請されている「社会人としての最低レベルの高次脳機能・実行能力」というのは、そんなに誰もが難なくクリアできるほどに簡単なものではないという側面もあるように思う。
人間の脳機能というものは歴史的・進化的に見ても個人差が大きく、機械(コンピューター)のように常に正確に作動するものではない。機械(コンピューター)ではない脳は、強い対人的なストレス、環境的なプレッシャーによってはADDの人でなくても、いつも以上にケアレスミスや不適切な発言・行動を繰り返すなどの「不注意型の特徴を示す実行機能の低下」が起こり得るということでもある。