高学歴女性に対する印象・偏見・コンプレックスと恋愛関係における男女の相互評価(相性認識)のバランス

学歴・知性にコンプレックスがある側に被害妄想の悪印象が生じる事もあれば、学歴・知性を権威的・競争的に示す側が傲慢に映る事もある。学歴に限らず職業・収入・容姿・家柄も落差があれば差異の解釈で印象は変わる。

「高学歴女」ってぶっちゃけどうなの!? 男性には好印象? それとも……

差異があっても差異を『優劣の意識』に結びつけず、『相手の人間性・生き方の価値』をそれぞれの次元で尊重して認め合えるようであれば、学歴の差異は男女関係の障害にはならない。だが何らかの対立でその差異を『相手の欠点(だから高学歴・低学歴は?)』に結びつけた批判が不意に口をつけば関係が修復困難にもなり得る。

差異のフラットな承認を継続的にするのは『倫理・理想の言論(ディスクール)』としては簡単に感じるが、実際は人間の心理には『属性・能力・魅力の差異=優劣の図式』が組み込まれやすく、表面で倫理化された人格が何かのきっかけで突然崩れて、『相手の痛い所をつく嫌な人間性』の影が覗く事(そう被害妄想する)もある。

自他の差異を優劣のコンプレックスに結びつけてしまった場合の人間の言論の特徴は『自分にないものを持つ他者・自分とは異なる生き方をする他者』の価値の引き下げを図る事だ。『高学歴は理屈ばっかでプライドだけ高い?低学歴は無知・下品だ?美人はお高く止まって冷たい?』など類例のコンプレックス・偏見は多い。

人間関係には一般に類は友を呼ぶの『類似性の原理』が働くと言われる。それは人間性・倫理観・価値判断の一定以上の成熟と安定がなければ、『自他の差異』を長期的に尊重し合って差異を非難の理由にしないのが難しいからとも言う。興味関心の範疇や話題の種類・深度、物事の具体化・抽象化などが合うかどうかも重要だろう。

学歴云々もそうだが、本をたくさん読む人とまったく読まない人、映画をよく見る人とまったく見ない人、運動(外遊び)をよくする人とまったくしない人、性欲が強い人と嫌悪すら感じる人というような、日常の趣味・活動・コンテンツの相性やバランスが良いかどうかも結構、楽しい関係が上手く続くかどうかと関係する気もする。

差異が多ければ多いほど、その差異をどちらかがコンプレックスや欠点に捉えていればいるほど、二人の関係にとってネガティブに触れてはいけない『地雷』が増えるとは言えるので、大半はやはり類似性の原理によって何となく似通ったタイプの相手が印象・相性が良い(気取ってない・構えなくて良い)と感じやすい傾向はある。

何がその相手にとって『気に食わない態度・偉そうに見える言動』になるか、正直言って予測できない部分は多い。例えばこのつぶやきでも『文章が長すぎる・もっと簡単に書け』と不満を感じる人はいるだろうし、知識の差異でも『予備知識が必要な話題・知らない事柄の質問』をされると反射的にバカにされたと感じる人もいる。

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