山口智子の『産まない人生宣言』と結婚・労働・出産を巡る世間体の圧力:なぜ『産まない人・産まない人生』は批判されやすいのか?

世間一般では、他者に危害を加えない限り、あらゆる生き方や価値観の多様性を認めるという人(相互不干渉の自由主義者)はそれほど多くないし、「自分の選択した人生の生き方」を直接的あるいは間接的に正当化してその正しさや幸せを他人にも認めてもらいたいという人(普通の人生モデルを提示してそれに沿うか否かで価値を判断したがる人)はやはり多い。

■山口智子の「産まない人生」宣言で考える 子どもを持たない選択した女性にも優しい社会

結婚していなければ結婚すべきだという人もいるだろうし、出産・育児をしていなければ出産・育児をすべきという人もいるだろうし、フルタイムの正社員で働いていなければ正社員で働くべきだという人も当然いるだろう。

それが世間一般の『(現代ではやや多様化・個別化が起こって拡散してきてはいるが)普通の人生モデル』だからである。更に、その『普通とされる人生モデル』に沿って生きるためには、現代では特に膨大な時間・労力・コストをかけて、およそ自分の人生のほぼ全体を投資するくらいの覚悟・努力がなければできないのであり、普通だから簡単で気楽にやれるわけではない。

平均所得前後を稼ぐくらいのサラリーマンになるにしても出産して子育てをするにしても、片手間で余力を残して『あれもこれも』でできる生半可なことではなく、中には仕事で心身の健康を崩したり、子育ての仕方を間違って犯罪(虐待死・非行誘導)に転落してしまう人も出て来るわけだから、本人にとっては正に『一度限りの人生を賭けた真剣勝負の取り組み』といっても過言ではない。

結婚生活や出産・育児に関しては、学歴・職業エリートで躓く人も多いのだが、その理由としては『普通・平均に対する侮り(今までの自分は普通・平均レベルの成績・実績まで落ちたことなど一度もないのだからとの過大評価)』があるからという側面があるだろう。

現実には、大多数の人は結婚して子供を育てて夫婦関係・家庭を維持して年老いていく『普通の人生モデル』をまっとうするために、ほぼ自分の持つ能力や経済資源、時間の殆どを賭けなければそうそう上手くいかない。

軽くそれらの普通の人生モデルに必要なイベントや課題をこなしてしまって、後は自分の好きなことを思いっきりやろうというわけにはいかない。それらの普通の人生モデルの数十年間に及ぶタスクが終われば、もう既に人生の後半に入っていたり健康状態も悪化していたりするし、少し前までは身体がボロボロになるまで働き続けた企業戦士はプライベートな余暇・趣味を楽しむ時間もなく早死にしてもいた。

生物種の多くは出産・一定の育児を終えたら自分の寿命が尽きてしまう種も多く、人間のような自我や想像力もないので、『遺伝子保存の本能』以外の目的のために殆どコストを割かず、効率的かつ自然選択的に繁殖をすればお役御免とばかりに自分はこの世を去るのである。

あくまでメカニカルに動く生物界・自然界ではそうであるというだけであって、自我や環境・概念の操作能力を持つ人間がその自然界の法則に従うことが正しいというわけではなく、『自然の摂理に人間個人や人間社会も従うべきだ(人間も自然選択的な遺伝子保存を最優先すべきだ)』という発想及び規範は、『自然主義の誤謬・優生主義(社会ダーウィニズム)の誘惑』を孕んでいるものでもある。

『普通の人生モデル』をまっとうするために自分の人生の資源や時間をほぼ使い切るかのような形になりやすい、これが現代における『結婚・育児・労働の他者との差異(自分よりも楽をしていないか・社会に貢献していないのではないか・自分だけ割りを食っていないか・無意味なことに労力と時間を費やしていないか』に不平不満や道義的非難を覚える理由にもなっている。

『人間として家族として社会人として親・子として~しなければならない(そうすることが幸せ・体裁への道であり社会的な義務であり共同体的な役割分担でもある)』という価値観をやや押し付けがましく時に脅して時になだめすかして表明する人たちが、少し前の時代までの『世間体・体裁の同調圧力』を生み出してきたが、現在はその世間を構成してきた『他者を普通の人生と定義するモデルに巻き込む圧力』に加担する人がかなり減ってきている。

1970年代までは90%以上の女性が20代で出産していたほど、その同調圧力と社会通念に逆らうことは心理的にも経済的にも非常にハイリスクだったのであり、『子供を産まない選択・結婚しない選択』というのは個人主義ベースの啓蒙主義的・フェミニズム的な理念型・思想性としてはあり得たかもしれないが、財産も安定雇用もない一般女性がそういった選択をすることは自らの生存可能性、社会保障さえも脅かす危険なものであった。

日本で結婚・出産が『個人の選択』として選べる可能性がでてきた歴史は(可能性が出てきただけであってみんなが選べるわけでは当然ないが)、長く見積もっても約20~30年程度である。

それ以前の時代には『共同体・直系家族・世間と距離を置いた理性的な個人』などはごくごく例外的な存在であり、大半の人は個人主義のスタンスに立って自己選択権を行使することなどできなかったわけで、共同体や家族のセーフティーネットに保護されていたこともあり、その習慣・しきたりに半ば盲目的に従うことが当然(逆らえば保護の網から外され、村八分状態となって生きていけないため)とされていた。

『産む人も産まない人にも優しい世の中になってほしい』というのは、個人主義と自由主義の前提をすべての人に承認して欲しい(他人のライフスタイルや人生の選択に干渉・反対をしないでほしい)ということだが……結論から言えばそういった社会共同体(すべての社会構成員が自由主義に依拠して生きる社会)は歴史上で出現したことが殆どないので、現代でも『結婚・出産・育児・労働に相当なコストと手間暇がかかる以上(それらの高コストに見合う価値や評価をそれをしていない人との差異から感じたい人がいる以上)』はなかなか難しい。

個人主義者は『他人は他人・自分は自分でそれぞれの個人の人生を生きる』とするが、世間主義者(共同体主義者)は『あなたも社会(共同体)の一員でありまずは社会人としての人生を生きよ』とする。

平たく言えば、結婚も出産も個人の自由であり選択なのだから放っておいてくれという個人主義者は『個人あっての社会(個人のほうが本質的で重要・独我論的で観念的)』のモデルを前提にしていて、その究極の目的は『個人の人生の幸福・充実・やりきった感』である。『神(存在の永続の志向性)』にとらわれない自由的な世界観である。

それに対して、結婚も出産も社会的義務なのだから好きも嫌いもなくとりあえずしなければならない、それが社会的動物で世間体も気にする人間の幸せでもあるのだという共同体主義者は『社会あっての個人(社会のほうが本質的で重要・間主観的で世間的)』のモデルを前提にしていて、その究極の目的は『自己遺伝子・社会(人類)の存続継承』である。『神(存在の永続の志向性)』が生きている規範的な世界観である。

その前提の食い違いが致命的に大きいため、特に『社会を再生産するための労働(納税)・結婚・出産』については、共同体主義者は『原則として個人がするかしないかを選択できるものではない・嫌であっても義務的にすべきもの』というスタンスに立って、産まない人やハードに働かない人に対して『自分さえ良ければよいのか・社会や他人のためにもっと貢献すべき・個人のわがままを許せば社会は維持できなくなる(だから個人に結婚出産・労働を半ば強制するくらいのイヤミや圧力も必要)』の論調で批判的になりやすい。

その意味では、「『俺たちは未来の納税者を育てているんだよ』と(兄に)言われたときは、ぐうの音も出なかった」というエピソードは、子供を持つ動機が個人的・性愛的・世間体的なものであったとしても、『子供を育てることの正当性・価値』を『社会貢献・現行の社会制度存続』に求めるという意味で共同体主義のある種のテンプレートになっているといえる。

しかし、『未来の労働者・納税者(高齢者福祉の財源補填や介護の労働力)にするために子供を持つ』というのは共同体主義(世間主義)から見れば社会貢献的な今の社会を継続させる正当性なのだが、個人主義から見れば子供の幸福を軽視した(子供を自分たちのために使おうとする)悪しき利己主義として指弾され得る。

共同体主義・世間主義は究極的には『社会共同体・遺伝子・現行制度の存続』が目的なのだから、子供がどのような人生を送りやすいかの確率論などは重視せず、産まれた後は親は育てるけれども基本は子が自己責任で生きていくという考えになる。

それに対して、個人主義・自由主義は究極的に『子供個人の幸福・喜び(生まれてきて良かった)』が目的になるので、『産むことそのものが無条件に正しいとする価値観』にはコミットせず、個人個人が現在の自分の人生や社会の情勢をどのように解釈しているかの結果として産むか産まないかを選ぶべきと考えるのである(故に人工妊娠中絶も女性の自己選択権の範疇と考えやすいだろう)。

物事はどちらの視点からも見ることができるし、個人主義・自由主義は飽くまで『他人がどのような生き方をしても他人に直接危害を加えない限りは認め合うべきだ』とするものだから、個人主義者でも子供が欲しくて産みたいという人は多くいるのである。

だが、個人主義者の場合には『未来の納税者・労働者としての子供(自分たちの社会保障・介護のために働いて重税を納める子供)という観念』はむしろ子供を産みたくない理由になりやすく、『自分が子供を欲しくて大切に育てたいと思った・今までの自分の人生は嫌なこともあったけど全体的に幸せで感動や楽しみ、良い出会いが多くあった・産まれてきた子供にも人生の素晴らしさや面白さを体験して欲しい』というのが積極的に子供を産む理由になりやすいだろう。

逆に、自分自身の家庭環境・親子関係・人生観や人間観などにトラウマ的な記憶やネガティブな感情体験が影響している場合には、『産まれてくる子供が人生の楽しさ・幸せ・面白さを味わえる可能性』に悲観的になりやすくなり、記事の山口智子さんや杉本彩さんのように個人主義的な判断から産まない(産めないと思う)選択になりやすくなるのである。

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