『死刑制度・人権思想』と『煮ても焼いても食えない類の凶悪犯罪者(悪行・無反省・社会憎悪の捻れた主体)』の処遇に困る現代の先進国

EUやアメリカの多くの州では、キリスト教の博愛主義(人間の人間に対する裁きの限界の自覚・人間の潜在的な良心と内省への信仰)を背景とする『人権思想・暴力禁止』の深まりもあって、刑罰としての『死刑(極刑)』は廃止の流れに向かっている。

死刑執行「本当に長かった」

日本は立憲主義的には人権を尊重する成熟した近代国家の一員ではあるが、欧米のような死刑廃止の流れは起こっておらず、むしろ他人を殺した凶悪犯罪者は死刑もやむを得ない(それ以外の自由刑では量刑が軽すぎる)とする死刑存置の価値観を持つ人が多い。同じ死刑存置の主張にも、『積極的・応報的な死刑肯定論(正義遂行としての死刑)』から『消極的・社会防衛的な死刑存置論(必要悪としての死刑)』までの幅はある。

あるいは日本では積極的に被害者の痛み・無念を思い知らせるために加害者に報復して死刑にすべき、更生なんてしなくていいから社会から完全排除して再犯リスクをなくすべき、裁判所の判決は事件の残酷さ・凶悪性に対して軽すぎる(被害者に落ち度のない利己的な殺人は原則死刑などもっと死刑判決のハードルを下げるべき・裁判員裁判の死刑判決を覆して無期懲役にするなどもっての他)だとする『死刑肯定論・死刑存置派』のほうが多数派を形成している。

欧米の死刑反対論は外国人を殺傷する国家安全保障(防衛・正義・テロ撲滅を掲げた戦争)とは矛盾するところもあるのだが、『人権・良心・殺人禁忌の普遍主義』に立脚していて、国家権力による死刑執行も『広義の禁止されるべき殺人の一種(人間の生命活動はいかなる主体や権力であろうとも人為的・法律的に奪うことは許されない)』と解釈し、死刑を人間の裁く権利の限界を超えた『反倫理的・非人道的・残酷な越権(神の領域の侵犯)』と見なすのである。

良心の普遍主義というのは、キリスト教の『懺悔・告白(告解)』による罪の赦免の教会文化とも相関するように思うが、どんなに他人や社会を憎悪して倫理規範・法規範を蹂躙する凶悪犯罪を起こした人間でも、『自分の犯した罪と向き合う良心』が完全に無くなったわけではなく、適切な更生教育・人間信頼(社会適応)の機会を与えられれば喪失した良心・倫理を取り戻せる可能性があるという考え方である。

良心の普遍主義は、神の赦し(人間の裁く権利の限界)や遺伝・環境の要因とセットになって、『加害者本人の凶悪犯罪に対する自己責任』を減免する理由となっているのだが、それは『その加害者がそういった悪事を犯す人間になってしまった責任は果たして本人の自由選択や自己責任だけにあると言えるか+本人にはどうしようもならない運命・遺伝・家庭・環境によって不可抗力的にサイコパスの社会憎悪的な人間性が形成されていった可能性がないか』という倫理的な問いへと接続する。

一方、死刑肯定論は『シンプルな行為主義と自己責任論』によって構成されるものであり、『どんな理由があろうともその理由が本人の意思で回避できないものであっても、重大な行為の結果に対する責任を被害の深刻さに合わせて取らせるべき』と考える。

『実際に善悪分別能力や行動制御能力(脳機能が生む自由意思選択性)を喪失していたとしても、人を殺したのであれば因果応報で殺し返されても仕方がない』という自由意思と責任能力の範囲を最大限に広く取るのが死刑肯定論と言えるだろう。

極論を言えば、心神喪失状態(脳機能の深刻な障害)であっても重度知的障害であっても未成年者であっても、他人を殺せば死刑で対抗すべき(被害者にとっては加害者の脳の状態がどうであろうと過去の成育歴がどうであろうと関係がない)という価値観を包摂している。

死刑肯定論では、自分の正常な精神機能や社会適応性を前提として、人間はいかなる状態であっても『人を殺すか殺さないかを選択可能なくらいの自由意思はあるはず』という前提を置くので、人を個人的理由で殺した人間はすべて『自由意思に基づく自己責任を負うべき行為選択の結果』として死刑を筆頭とする重罰の対象となる。

私も自分自身を対象にするなら、殺人をするかしないかのレベルの自由意思は保たれるとは思うが、『自由意思・自己選択の能力』については認知科学的にもブラックボックスの領域は多いとされる。

現代の文明社会において、人を殺してでも何かを実現しよう(自分の妄想・欲望を満たそう)と考えるだけでなく、それを実際に行動に移してしまって反省もない人というのは、やはり一般的な脳機能や社会適応の範疇からはかなりズレた人である可能性が高く、土台に築かれている人格構造(生誕から現在までの影響の蓄積としての人格・行為基準)が異常といえば異常ということにはなるが。

良心・罪悪感が完全に欠如しているような凶悪犯罪、社会憎悪・他者敵視を前提とする確信犯的な犯罪については『本人の自己選択の結果(責任能力を問われる自由意思が介在した行為選択)』と見なしていかないと、社会秩序や人権(他者の生命・自由)を守っていくことそのものが不可能になりかねない事情もある。

ニュース記事にある鎌田安利死刑囚(75)は、『わしがやった。捕まえられるものなら捕まえてみろ』と警察を挑発し、19歳の女性や大阪市の小学3年生女児(当時9歳)ら9~45歳の女性5人を殺害したとされ、取り調べや公判の最中の態度も横柄で反省がなかったとされる。

端的には、大教大付属池田小を襲撃した宅間守元死刑囚と同じく『煮ても焼いても食えない類の人間(反社会性・他者憎悪・ミソジニー・サイコパスなどを背景とする捻じれや歪みが過度に激しくなって適応的な良心のある状態に戻しづらい人格)』である可能性が高いが、死刑制度を廃止しようとする現代先進国の理想論(良心・理性・想像力の普遍主義)の矛盾の具体化として、こういった事件・人間が完全に無くなることはやはりないのだろう。

人間個人には何者も否定できない不可侵の人権が備わっていてその生命・自由を奪うことは許されないという天賦人権論のフィクションは、半ば必然的に『死刑制度の廃止・国家権力の国民支配の否定』に結びついているのだが、これは同じような人権のフィクションに基づく倫理規範の前提を共有できる人の集団社会でしか有効ではないという限界があるのだ。

その限界の露呈として、『殺人・犯罪・戦争・テロ(自分を既存システムや支配秩序や人間関係の被害者だと妄想的に自覚して復讐しようとする社会憎悪者・他者不信者・不適応者の絶えざる発生とその一部の犯罪者化)』がある。

そして、人権思想や文明社会を前提とする既存システムを守ろうとする人たちにとっては、そういった反社会的パーソナリティーの価値観やそこに行き着くまでの理由など理解できるもの(理解したいもの)ではない、基本的には『恐怖・軽蔑・排除・憐れみ』の対象にしかならないのである。

人権思想の前提には、すべての人間は一時的に倫理観・人格が歪んだり捻れたりしたとしても、潜在的に人間固有の本性として備わっている良心・罪悪感・内省が完全に失われることはないという人間観がある。

究極的には人間というのは『話せば分かる理性的主体・温かく接すれば協調する情緒的主体』であるとする良心の普遍主義とも人権尊重は関係するのだが、現実社会にある犯罪・暴力・テロ・劣悪な人間性などに触れていると、良心・内省の普遍主義の信頼はどうしても揺らぎやすい。

そういった信頼の揺らぎから、『煮ても焼いても食えない類の人間もいるではないか・あいつはどうやってもまともな心を持つ人間には戻れないダメな奴だ・確かに温情主義で環境と人間関係を良くして長期間の育て直しをすれば変わるかもしれないが凶悪犯にそこまでしてやる義理はない=被害者の道義的・世間的な報復を果たすべき、人間性が捻れていて危険だから社会から排除すべきという死刑肯定論』への誘惑は相当に強いということになる。

良心や内省の普遍主義を前提とした現代の文明社会では、『煮ても焼いても食えない類の人間』は初めからこの社会にいないもののような前提で扱われてしまうので、仮に死刑にならなかったとしても基本的には社会・他人から受け容れられずに余計に性格・人間性を歪ませてしまうことの繰り返しの悪循環にはまりこんでしまいやすい。

凶悪犯罪者に共通する基本的認知の歪みは、『どうせ俺(私)は誰からも尊重されないし好かれないのだから、それなら好き勝手に他人を傷つけて奪って社会に復讐してやるという社会憎悪・他者不信・いじけの累積』に拠るものであるが、この半ば運命的とも言える凶悪犯罪にまで転落していく捻じれ・歪みの累積を、自助努力と良心の強度だけで解消するというのは概ね不可能に近い。

誰も好き好んで他人を身勝手な理由で殺害して悪びれずに社会を挑発する(社会全体から嫌われて軽蔑されてお前なんか早く死んでしまえとバッシングされる)凶悪犯罪者になどなりたくはないはずだが、犯罪者はむしろその犯罪をする前から自分が『自分は社会・他者から排除されてバカにされ冷遇されているという被害者意識(真面目にやっていても誰も認めてくれないとか何も良いことがないとか人・社会と接すれば嫌な思いばかりさせられるとか)』を持っていることが多いのである。

だが、そうなってしまう人が必ず出てくる(いつの時代でもそういった社会憎悪者・利己的で快楽的な殺人者がゼロになったことなどない)のが現実の世の中の恐ろしい所だと思う。なぜそうなってしまう人(人の道を完全に踏み外して人の心を失ってしまって戻ってこれなくなった人)があの人であってこの人ではなかったのか、あるいは自分ではなかったのか、その根本の理由が『私の自由意思・自己選択・良心と遵法と知性の強度』だけにあるのだと言い切ってしまうのもまた傲慢な独善だろう。

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