日本の労働者は“お客様”の為に過労になるのではなく“会社・保身・同調”でなる。日本人は所属する生産・配分の拠点から排除(村八分)されると生存を維持できない不安が強い。かつてのイエが会社に変わっただけの面もある。
近世・近代初期の日本人はどこかのイエに所属しイエは血縁者で相互扶助する共同体の性格を持ち、困窮する末家(長男以外の分家)を本家が支援した。家は生産手段としての田畑・山野・家業を保有し、農業経済では家族で労働して成果を配分したが個人の生存はイエと村に依存していた。排除されれば野垂れ死にを避け難かった。
かつてのイエに対する個人の依存と忠誠は、近代化でサラリーマンが増えるにつれ、大勢の社員に成果を配分できる生産手段・資産と社会保険を保有する『会社への依存と忠誠』に置き換えられやすくなった。人間は自分の生活費や居場所のネックを掴まれると、その相手に気を使って監視されているような意識を持ちやすくなる。
日本人のステレオタイプな特性としての『勤勉・集団主義』は、性格・気質としての勤勉性もあるが、自然な行動様式として勤勉・集団主義であるというよりも、『生きていくための重要な条件・居場所との関わり方(同調圧力)や適応方略(集団内評価の上昇)』としてそうならざるを得ない部分も強い。
たかが会社や仕事ではないか、命と健康のほうが大事というブラック企業批判の見方も強まってはいるが、『生産手段を持っていない・個人資産を持っていない・ポータブルスキルやキャリアがない』の条件のある個人にとって、会社や仕事というのは日々の生活費・社会保障を支える排除されたら即座に困窮する生命線でもある。
過労死したり精神病になるほどの従順さや無抵抗さに裏打ちされた過剰適応の背後には『今の会社・仕事から最悪排除されても自分なら何とかなるという後ろ盾の無さ』がある。理不尽な待遇の会社でも無力・勤勉にならざるを得ないのは、責任・負債の累積を支払っていくための具体的手段が会社・勤務以外にはそうそうないからである。