人間社会には待遇の差を人々に納得させるヒエラルキー(階層序列)の仕組みがあるが、学歴は近代社会において機会の平等と公平な競争を建前とする『流動性のある擬似的身分・学習能力の指標』として機能した。
学歴は確かに勉強さえできれば、家柄・経済力・コネを問わず取得できる『スタート地点の平等・公平な競争の結果』のように見えるが、明治期の大卒者の多くが余裕のある華族や素封家の出身であり、庶民の子が多少勉強できても経済事由から進学を断念したように『出身家庭の文化・教育・経済・価値』と切り離せない面もある。
学歴を気にするか否かは、所属しているコミュニティ・職業集団の平均学歴や話題の選択・価値観・学閥の有無(上位者の学歴へのこだわり)と相関する。年収800万前後の上場企業の大卒サラリーマンは『高学歴者の多い環境・出身大学に関する話題や人脈』の要因によって過去の学歴を気にさせられる機会が多いためだろう。
人間の能力・魅力は多様で数値化できない側面も多いが、学歴というのはそれなりに受験勉強をした人なら『東大・京大・医大を偏差値(入試難易度)の頂点とするヒエラルキーの序列・順番』が自然に刷り込まれている国民の階層性に関する共通知識なので、別にこだわりがなくても上下・難易度の区別がつく特性がある。
学歴(当時の学力)だけでその後の職業の実力がない人はいるし、家柄(身分)だけでその後の身分制が廃止された時代にどんどん落ちぶれた人もいくらでもいる。一方『東大・京大・旧大名家・旧五摂家の出身』といえば仮に今がダメでも『変わらない属性・指標』として差別化の印象を与える程度の効果はある。
平均では、学歴がない人よりもある人のほうが、知識・教養・文化・向学心が高い傾向はあるし、大企業・上級公務員の入社には学歴フィルターがあるので平均年収も高くなるだろうが、学歴にこだわる人は『変わらない属性・指標(厳密には年齢が進むほど取り直しにくく実利も弱まる)』にコンプレックスを抱きやすいのだろう。
まぁ、人の能力・魅力は多様性に富んでいて、学歴以外にも圧倒的な美貌・美形とか、極端にお金儲けの才能があるとか、プレゼン・宗教・思想においてカリスマ的天稟があるとか運動能力とかいった『学歴のヒエラルキー』で対抗できない階層もあるが、こういった序列階層にこだわって比べる人は概ね主観的に不幸になりやすい。